Go To 岡山倉敷尾道小豆島

(2020・11・16〜21)

はじめに

 折角、国がGo To トラベルという有難い制度を設けてくれたのに、東京都の感染拡大時に小池都知事が「よぉ〜く考えてみよう」と言ったせいで、東京だけが除外されてしまいましたが、10月から適用されるというニュースがありました。そこで“これを利用しない手は無い!”と、夫婦ともに行ったことがない岡山、倉敷方面に出かけることを計画。

来年も(というか、コロナのワクチンと治療薬が開発されない限り)海外に行けないとなれば、一部期限切れとなってしまうマイレージを利用して、ANA岡山便を確保(国内なら約2か月前でもOKなんですね)し、GoToトラベルキャンペーン・サイトの最初に出てきた「じゃらん」を通して、ホテルを予約しました。

 

11月16日(月)・一日目  晴れ

 午前4時半に起きて、出発準備・・・岡山での時間を有効利用するために、第1便(730羽田発)を選択した結果です。早朝便ですが、機内がほぼ満席なのにはちょっと驚きです。840に“桃太郎空港”に着陸後、900発のリムジンバスで30分、岡山駅に到着です。我が故郷・徳島はなんでも“阿波踊り”(=空港名も)ですが、当地岡山ではそれが“桃太郎”で、JR駅前にも家来を引き連れた桃太郎の銅像があります。

先ずはホテルへ向かいます。岡山の宿は駅から徒歩5分、大きなショッピングモール“イコット・ニコット”の6〜7階にある「アベスト・グランデ」です。聞き慣れない名称ですが、神戸ポートタワーホテル(ポートピアホテルではない!)を旗艦として、各地にビジネスホテルを展開する、女性社長(松山みさおさん)率いる新興ホテルグループのようです。

手荷物を預けると、早速街に飛び出し、目の前の「桃太郎大通り」から市電(岡電)に乗って「城下」で下車(100円)。少し歩くと公園、そして傍を流れる旭川の向こうに岡山城の天守閣が見えてきました。天守閣の黒壁が紅葉に映えます。

   

   

廊下門」から石段を上がると、広場=「本丸・中の段」の先にある「不明門」(普段は閉ざされていたのでこの名前がある)を潜って石段を上がると、目の前に3層6階の天守閣が聳えています。

   

                                                                                     (廊下門)                    (不明門=あかずの門

  

(内側から見た不明門)               (城主住居跡の礎石)

  

 (天守閣)

 〜〜戦国時代、浪々の身からのし上がって備前を平定した宇喜多直家(15291582)が当時の石山城に入城し、これを改築。あとを継いだ宇喜多秀家(15721655)が新たに本丸を設け,石山城を取り囲む形で城郭を構築し、これが岡山城となった。天守閣は黒漆塗の下見板が特徴で、別名「烏城うじょう」とも呼ばれた。その後城主は小早川家、池田家と変わり、池田家が幕末まで治めたが廃藩置県で最後の城主池田章政は潘知事となり、城は府城としての役割を終えた。

明治6年の廃城令により、構築物は次第に取り壊されて天守閣とわずかの建物を残すのみとなった(天主閣が残っただけでも素晴らしい!)。しかし、1945年の岡山空襲で天守閣を焼失し、1964年からその再建に着手。秀家築城当時のイメージを基に鉄筋コンクリート造りで1966年に完成。同時に今通ってきた廊下門や不明門も再建された。

 戦後20年でこれだけ立派な天守閣を再建したとは、岡山県の底力というか、本当に大したもんだなぁと感心します。(翻って、竹下内閣は金が有り余っていたバブル時代にふるさと創生といったバラマキ行政をせず、一点集中で、江戸城天守閣を再建すべきでした!)

 尚、天守閣は「方形」ではなく、不等辺五角形になっていて、見る角度によって形状が異なっています。信長の安土城も不等辺形状であったそうです。宇喜多秀家の正室・豪姫は前田利家の四女で、安土築城には加賀藩の大工が多く携わっていたそうで、秀家の烏城築城時にも加賀から大工がやってきたのかもしれません。

  

 エレベーターで天守閣の天守部分へ進みます。

  

屋根の先端には朝日を浴びて輝く金の鯱が載っています。創建当時に金の鯱があり、「金烏城」と呼ばれたという伝承に基づいて、築城400年に当たる1996年に鯱に金箔を施したそうです。秀家が築城の当時にこれだけの金鯱を飾ることが出来たのは、彼が太閤秀吉にそれだけ可愛がられていたからだそうです。

    

 天守から地上の眺めです。

    

(前庭から市内)               (月見橋)                       (後楽園)

 天守閣を降り、不明門を出て、元和元年(1615)頃に創建された月見櫓に向かいます。周辺の紅葉が綺麗です。

     

  広場に、「城中城」というか、宇喜多秀家時代の石垣の遺構がありました。本丸は池田家時代にかなり拡張されたんですね。

 石垣の間の石段を下りていくと、月見櫓があります。空襲を奇跡的に免れ、城内で唯一残った江戸時代の建物です。

     

                                                                                   (月見櫓)

 お城を出て、旭川に架かる月見橋を渡ります。鉄骨造りで無機質な感じです。木造のもう少し風情のある橋にすればよかったのになぁ・・・と思いました。

  

 橋を渡って右に曲がると、食べ物屋があります。少し早いですが、お昼にしましょう。2軒あって、ネットで人気だったのが「月見茶屋」ですが、コロナの影響でしょうか閉店しています。そこで営業している「碧水園」に入ります。カウンターに座ると、窓越しに岡山城を眺めながら食事を摂ることが出来て、これは結構。

       

 夜のことを考慮して、軽めの昼食にします。(尤も、カレーは結構ボリュームがありました)

  

(私=エビフライ・カレー)                 (妻=胡麻入り蕎麦&温かい汁)

 腹ごしらえを終えて、南門から後楽園に入ります。金沢・兼六園、水戸・偕楽園と並ぶ天下の三大名園ということで期待が膨らみます。岡山藩2代目藩主・池田綱政が造営を命じ1687年に着工し、1700年(元禄13年)に一応の完成を見た、元禄時代を代表する庭園だということです。

 入園すると、すぐ右手に池があってその奥の建物が廉池軒。綱政公が最も好んで使用した亭舎で、戦災を免れた数少ない建物だそうです。

         

 小高い築山があります、高さ6mの唯心山です。上ってみると、広い庭園が見渡せます。池が縦横に巡らされているのがわかります。

  築山の麓の紅葉です。

     

 蘇鉄の広場を過ぎて、中央の沢の池には島茶屋のある中之島が浮かび、太鼓橋が架かっています。残念ながら橋の終わりに柵があって、島茶屋に亘ることはできません。

  

 さらに奥へ進むと、大きな岩の向こうに慈眼堂。綱政公が1697年に領民と池田家の繁栄を願って建立し、観音像を祀ったそうです。岩は花崗岩を36個に割って組み上げた烏帽子岩だそうです。

     

 池の畔から子供が餌を投げています。沢山の錦鯉が集まってきました。

  

 近くの林の紅葉が色鮮やかです。(尤も全般的には、思ったより紅葉は少ないです)

  

 何やら奇妙な鳴き声が聞こえたので、その方向へ行ってみると、大きなゲージがあって、中に丹頂鶴がいました。その大きさにビックリ。頭頂の朱色が鮮やかです。江戸時代から園内で丹頂が飼われていたそうですが、一時途絶え、旧制岡山第六高等学校に学んだことのある郭沫若氏から昭和31年に2羽が贈られたのが戦後の飼育の始まりで、その後釧路市の協力もあり、現在8羽が飼育されているそうです。毎年、元旦には数羽の丹頂が放たれて園内の空を舞うということです。さぞや優雅な光景でしょう。

    

 〜〜こうして園内を回りましたが、何となくだだっ広いといった印象で、三名園といっても(岡山の人には申し訳ないが)兼六園と比べると物足りないなぁ!・・・といった印象です。対岸・香川の栗林公園の方が造園としては上だと感じました。

  

 (正門前の旭川に架かる鶴見橋、こちらの方が月見橋より風情があります)

 

 岡山駅に戻って、時間があったので駅ビルのショッピングモールでティータイム。ヴィ・ド・フランスのデニッシュ(マロンとバスクチーズ風)が美味しかったです。 (我が家の近所の店にはありません)

  一休みすると、次は、吉備線改め“桃太郎線”に乗って、吉備津へ向かいます。目的は吉備津神社です。

  

(桃太郎線・総社行き)                    (吉備津駅)

 

 吉備津駅で降りて7.8分歩くと右手に朱塗りの小橋の向こうに鳥居と松並木が見えました。道路を渡ると松並木の参道が続きます。参道の両側は田畑が広がって晩秋のなんとものどかな風景です。参道の先にある小山が「吉備の中山」で、山中には多くの古墳が存在しており、太古の昔の吉備国の繁栄が偲ばれる場所で、山自体が吉備人にとってご神体でもあるそうな。

     

  次の鳥居の先に石段が見え神社に到着です。吉備津神社の主祭神は大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)。石燈籠の手前に苔生した大岩=「矢置石」があります。吉備津彦命が民衆に害を為す温羅(うら)という鬼(=百済から来た王子)と戦った時に武器の矢を置いた石だそうです。そして吉備津彦命が激戦の末、ついに温羅を退治したのが“桃太郎伝説”の始まりだということです。・・・朝鮮渡来の一族が勢力を張り、これを吉備人が倒したということなんでしょうね。

    

                                                    (矢置石)

(神社境内図)

 吉備津神社は元来吉備国の総鎮守であったが、吉備が3分割(備前・備中・備後)されたことにより、備中の一の宮となった。この事象に古代史における吉備国と大和朝廷の抗争の歴史が表象されている。

〜〜3〜5世紀に吉備国は製塩と製鉄で富み、大和王権に対抗する勢力であった。吉備人の視点に立った“神話”に基づけば・・・神武東征をはじめ、大和王権の確立に協力したが、吉備国の勢力伸長を恐れた大和朝廷は“恩を仇で返す”かたちで、孝霊天皇の皇子・彦五十狭芹彦命 (ひこいさせりひこのみこと)を総大将とする侵攻軍を差し向けた。吉備津彦命に率いられた吉備軍は頑強に抵抗したものの、一敗地にまみれ、吉備津彦命は「和平の証として我が名前を彦五十狭芹彦命に差し上げます」と言って降伏した。⇒ここで吉備の吉備津彦命が、大和の吉備津彦命に入れ替わることになった。

  実際の歴史において、5世紀に雄略天皇は吉備の反乱を鎮圧して、大和王権の優位を決定づけ、持統天皇の689年に飛鳥浄御原令で吉備を備前・備中・備後の3国に分割(713年にはさらに備前から美作を分割)。この分割により、吉備としての統一的なパワーは無くなり、”分裂“はそのまま江戸から明治に至るまで続き、岡山県となった今日でも岡山都市圏と倉敷都市圏の対立などその影響は残っているといわれる。いやぁ、日本の歴史は奥が深い!

 石段を上がり、朱色が鮮やかな北隋神門を潜り、さらに石段を上ると本殿前に到着です。

     

                            (北隋神門)                        (本殿前)

 お参りを済ませた後、右手を辿ると、南隋神門に至り、そこから回廊が続いています。そして、いやぁ、凄い!・・・何がすごいかというと、この回廊が緩やかなスロープを描きながらず〜〜〜っと奥の奥まで続いているのです。こんなに長い回廊を持った神社は他に類を見ません!戦国時代の天正年間に造営されたもので、全長398mあるそうな。

  

 ↓下の写真で、回廊の長さが分かっていただけるでしょうか?!

    

 途中途中に、いくつかのお社があります。

    

           (えびす宮)             (岩山宮の鳥居・・・宮は長い石段を上った処) ⇒ (上がっていくと、これが岩山宮だそうです) 

   

 (祖堂社)                          (三社宮)                        (三社宮の額)

 ふと右手を見ると、当宮の鳥居の向こうに神社が見えたので、立ち寄ってみました。宇賀神社です。立札に「吉備国最古の稲荷神社」とありますが、朱色が真新しい感じです。小さな神社に比べて大きな建物はどう見てもお寺です。神仏混交の境内ですかな?

    

          (橋を渡ると、宇賀神社)

 本社に戻ると、御釜殿という社があって、立ち入り禁止・撮影禁止になっています。温羅を祀る場所だそうです。古来より神聖に取り扱われてきた火で釜を焚き、釜から出る音の大小長短で吉凶を占う鳴釜神事を執り行う場所だそうです。

    

 回廊の果てるところまで歩いてみました。左折すると突然の行き止まりで、「備中中山 谷川古跡」と大きく刻んだ石碑が立っていました。神社脇の山道を登ると、大吉備津彦命の陵墓付近を源とする川=細谷川が流れているらしい。

 回廊を見極めたところで、引き返します。再び長い長い回廊を歩いて本殿に戻りました。左手に回ると、本殿と拝殿の全景が見えます。ちょっと変わった造りになっています。「吉備津造り(比翼入母屋造り)」と言って、珍しいと言うか、わが国で此処だけの様式だということです。この建物は室町時代の1390年に後光厳天皇の命を受けて足利義満が造営(1425年完成)したもので、国宝となっています。

  回廊途中にいくつもの社殿がありましたが、拝殿の奥には一童社という社があります。学術・遊芸の神で、近年は受験の神様として人気があるそうです。

  じっくりと時間をかけて吉備津神社を回りました。駅に戻ると、もう日が西に傾いています。再び桃太郎線の電車に乗って岡山に戻ります。

     

 5時過ぎ、ホテルにチェック・インです。部屋に入ると、ベッドは大きめのセミダブルで、天井も高く結構広々としています。我が家は、たいていホテルは寝るだけですが、3泊もするので、少しはゆったりしたいと、「コンフォート・ツイン=28u」というクラスを選択しましたが、正解でした。室内は清潔で、設備も充実しており、隣の部屋の音が聞こえることもなく静かです。又大浴場があって疲れを癒すことが出来、朝食は充実したブッフェというのも嬉しい点です。(現在のコロナ禍で、岡山でも殆どのホテルは朝食ブッフェを中止しています)。

  

 荷物を置くと、さぁ、今夜の夕食です。GoToイートで検索し、駅近くで、地域クーポン券(=このホテルで6千円のクーポンをもらいました!)も利用可という「Ryoutei奉還町本店」というお店を選択して予約しておきました。案内されたのは個室でガラス窓越しに中庭が見えます。ちょっと派手目でバブリーな雰囲気です。

   

 オーダーしたのは4500円の会席コースです。(以下の写真の料理の最後にデザート=スイーツ盛り合わせが付きます・・・写真を撮り忘れました!)

  

       (八寸)                         (鰹のタタキ風)                     (アサリの酒蒸し)  

(ご機嫌な人!)

  

(お造り盛り合わせ・・・鯛が美味しい!)             (和牛ローストビーフ)                   (カニのグラタン)

  

 (天婦羅盛り合わせ)                   (鴨なんばん蕎麦)

 いやぁ、品数もさることながら、一品ごとのボリュームが半端じゃありません。特に最初の「八寸」はもうこれだけでおなかが膨らむほど。でも「出された料理は残してはいけない」という教育を受けてきた二人はしっかりと箸を進めますが、さすがにギブアップ寸前。仲居さんから「あと、お蕎麦とデザートです」と告げられた時は、何故かホッと救われた気分になったのでした。

  

(夜の岡山駅前)

 ホテルに戻ると、大浴場で疲れをほぐします。部屋に戻ればバッタン・キュー・・・今日はなんと25,600歩も歩いていました!

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