11月21日(土) 6日目
今日も晴天です。いい旅の秘訣は”元気と天気“です。元気は自分の心がけ次第ですが、天気はどうにもなりません。日本の旅で6日間連続晴れるというのは珍しいことで、まことに有難いことです。
当初は、今日は井上誠耕園とオリーブ園&公園へ買い物&観光で訪れ、夕方のフェリーで帰る予定でしたが、昨日渚マスターにお世話になって買い物も済ませたので、土庄港9:50発⇒新岡山港11:00着の便で岡山に移動することにしました。2泊3日の滞在でしたが、港を離れるときはなんとなく感傷的になるもんですね。
(土庄港を出航)
寝仏山や屋島を眺めているうちに、岡山に戻ってきました。
帰りの飛行機は最終便(20:10発)なので、これから吉備津彦神社と西大寺に行ってみようと計画しましたが、問題なのが港からのバスが予定通り37分で岡山駅に到着するか?ということです。ラッシュ時ではないので、渋滞は起きないだろうと思いつつも若干気を揉んでいましたが、略予定通りの11:50頃に無事到着。急いで荷物を駅のロッカーに預けると、ランチをしている暇はないので、妻が手早く「さぼてん」のコロッケとコンビニのオニギリを購入し、「JR桃太郎線」のプラットホームへ走り、滑り込みセーフ。(ふぅ〜っ、これでどうやら予定通りに行けそうです!)
備前一宮駅で降りて、少し戻って線路を渡ると、鳥居が見え、参道を進むと、両側は大きな池。池の中の岩では亀がのんびりと日向ぼっこをしています。
池の畔のベンチに座り、持参の品でランチ・・・こういう場所だと、何を食べてもご馳走です。
(境内見取り図)
吉備津神社の所で触れましたが、吉備の国が3分割されたとき、総鎮守であった吉備津神社は備中一宮となり、備前には一宮として吉備津彦神社が置かれました。従って主祭神はともに大吉備津彦命です。吉備津神社を参拝したからにゃあ、“両参り”で、こちらもお参りしなくちゃぁ!と、やってきた次第です。
隋神門を潜って境内に入ります。大灯篭の石段が目を惹きます。
(隋神門) (左右の大灯篭)
拝殿右横に大きな杉=平安杉があります。名前からすると、平安時代からあるのでしようか?幹のほとんどは枯れて補修の樹脂で固められていますが、樹皮にはまだ命があっるようで、葉が青々と茂っているのは驚異的です。社殿は奥へ、拝殿〜祭文殿〜渡殿〜本殿と繋がっています。随神門から本殿まで、非常に均整の取れた神社です。
(拝殿) (平安杉) (横から見た祭文殿)
(本殿=左、渡殿=右) (本殿)
拝殿右手奥の階段を上がると、朱塗りの子安神社があります。池田家宗家2代の利隆が3代光政(初代岡山藩主)の誕生を祝って造営したもの。面白いのは、その右に7つの小さな社=末社がずらりと並んでいます。下宮(倭比賣やまとひめ命)、伊勢宮(天照大神)、幸神社(猿田彦命)、鯉喰神社(楽々森彦ささもりひこ命荒魂)、矢喰神社(吉備津彦命御矢)、坂樹神社(句句廼馳神くくのちかみ)、祓神社(払戸神)・・・カッコ内はご祭神で、天照大神が此処では「末社」になるんですね!
(子安神社) (奥へずらりと、7つの末社)
境内から出た左手には稲荷神社の鳥居が奥へと続いています。社はかなり石段を上がったその先のようなので、ここはご遠慮しました。
境内は整然としていますが、吉備津神社よりは規模が小さいので、ぐるっと回って1時間ほどで、駅に戻ってきました。
プラットホームの脇に「石船古墳 石棺の蓋石」が無造作に置いてありました。石舟古墳とは岡山市北区にある古墳時代末期(7世紀)の横穴式石室古墳。此処にあるのは、その石棺の蓋石で、そんな歴史的遺産を野ざらしで置いてあるのに驚きました。
上り電車で、岡山駅に戻り、次は赤穂線に乗り換えて西大寺駅へ。案内によると、駅から西大寺は徒歩10分とあったので、歩き始めましたがなかなか見つかりません。途中地元のおばさんに「西大寺はこの方向ですか?」と尋ねると、「この辺り、ぜぇ〜んぶ、西大寺ですよ」、「あのぅ、お寺の・・」、「あぁ、観音院のことね、それならまっすぐ行きはったらよろしい」・・・どうも地元では「西大寺」ではなく、「観音院」と呼んでいるらしい。歩きくたびれて、途中でタクシーに・・・何のことはない、駅からタクシーを利用すべきでした。
やっと西大寺=観音院の仁王門が見えてきました。仁王門は1740年に再建されたもの。
西大寺(高野山真言宗別格本山)は777年に創建されたと伝わる。古文書によれば1299年に堂宇を焼失した記録があり、当時既に西国屈指の大寺であったらしい。現在の堂宇は17〜19世紀の江戸時代に再建された建物である。従って歴史的な価値はそれほどでもないが、此処を有名にしているのが会陽=”裸祭り”・・・日本三大奇祭りの一つに数えられ、毎年2月の第3土曜日に開催される。当日の午前0時(2010年からは午後10時)、まわし一丁の裸の男衆1万人がひしめく中に2つの宝木が投げ込まれ、男衆は争奪戦を繰り広げ、宝木を手にしたものが年男となる。(コロナ禍で、2021年は無観客、参加者も140人に限定されるという)
(裸祭りの様子・・・資料より)
(境内マップ)
裸祭りの時期、境内は大勢の見物客で大賑わいとなるのでしょうが、今日は3連休の初日だというのに、広い境内に人影はチラリホラリです。仁王門を潜ると、三重塔(1678年再建)があります。塔と屋根(?)のバランスが良く、すっきりと均整がとれた感じがします。
本堂は1863年再建、欅づくりのお堂は壮大という感じです。正面には「宝來柱」があります。宝木が納められた擬宝珠に触れると、宝木の御福を授かれるということです。本堂の前には(お寺には珍しい!)スタンドが設置されています。裸祭りの際の観客席ですね。
(本堂) (宝來柱) (本堂内部)
本堂の右手には黄金に輝く普陀南海観音像。中国4大仏教聖地のひとつ普陀山にある高さ33mの南海観音の1/10の複製で、2003年に普陀山から贈られたものだとか。
≪普陀山伝説≫
普陀山は、中国・杭州湾の出口から100海里にある島。僧・恵萼(えがく)が中国留学を終え、五台山から得た観音像を日本に持ち帰ろうと船出したが、普陀山にさしかかると 船が
竜宮城を想わせる石門は1819年建立。扁額に「龍鐘楼」とあります。外に向かって鳥居があり、階段の下には観音像。その周囲の広場で、裸祭りの際に、水垢離(こり)をして身を清めるそうです。(その模様のパネルがありました・・・見るからに冷たそう!)
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鐘楼門は18世紀末頃の建立。梵鐘は「招福の鐘」と呼ばれ、高麗時代(10〜11世紀)に朝鮮で製作されたもので、国指定重要文化財。もとは石門に吊るされていましたが、明治時代にこちらに移されたそうです。
千手堂には南海観音と同じく普陀山から迎えた千手観音を祭ってあります。鮮やかな天井画は一般公募の124名が描いたもので198枚あるそうです。
高祖堂(1673〜75建立)は弘法大師を祀ってあるそうです。
本堂の奥に牛玉所(ごうしょ)殿・奥殿があります。拝殿・釣殿・本殿・奥殿という複合建築で、少し離れて横から見るとその複雑な造りが分かります。
(牛玉所殿・正面) (同・側面)
本殿のパネル写真がありました。左が白玉文殊菩薩で、普陀山よりもたらされた白翡翠の菩薩像。右が五大明王・・・ご本尊(牛玉所大権現)が秘仏の為、前立の牛玉所大権現として崇めているということです。
(本殿内部を示したパネル写真) (白玉文殊菩薩) (五大明王)
五大明王とは↓(・・・西大寺資料より)
(不動明王) (隆三世明王) (軍荼利明王) (金剛夜叉明王) (大威徳明王)
本殿の左奥に行くと、「奥にお庭がありますから、ご自由にお入りください」と書いてあったので、奥へ進むと、きれいな庭がありました。聳え立つような大木は、2本の楠が寄り添うように立つ姿から「和合の楠」と呼ばれています。
(和合の楠)
意外にも小さな社の奥殿には、ご本尊の牛玉所大権現のご本体をお祀りしてあるそうです。その前には水かけ請願不動があります。案内版に従って、教文を唱え、お不動さんに水かけをして、“願い事をひとつ”とありますから、“妻が元気でありますように”とお願いしました。
(奥殿) (水かけ請願不動)
広い境内をいろいろと見て回っていると、4時半を過ぎ日も傾いてきました。ふと思い立ってやってきて、大変良かったです。
(境内の横は吉井川の支流?) (牛玉所殿前の巨木)
タクシーを拾おうと思っても、人通りも少ないので、タクシーの姿は見えず、結局帰りも駅まで歩きました。(トホホ)
〜こうして5泊6日の全日程を終了しました。再び赤穂線で岡山駅に戻ると、日もとっぷりと暮れていました。今日から3連休とあって、駅ビル内は混雑しています。(我が家と同じように)GoToトラベルを利用している団体ツアー客の姿が目立ちました。
妻が「駅ビルの中においしそうなラーメン屋があったわよ。尾道ラーメンを食べたから、最後に岡山ラーメンも食べましょう」・・・と言うので、その店に入ってみました。豚骨醤油スープ、黄ニラ・醤油スープのどちらも美味しかったです。駅ビルの店でこれだけの高水準ですから、岡山ラーメンも侮れません!
(黄ニラ・ラーメン) (豚骨醤油ラーメン) (ミニ焼き豚丼)
満席のANA最終便に乗って、無事帰ってまいりました。(今日は20,900歩でした)
久しぶりの国内旅行でしたが、GoToの制度は大変有難いし、天候に恵まれ、いい人との出会いもあり、本当にいい旅になりました。感謝感謝です。
(完)
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