ク・ル巡

(2020・2/20〜2/26)

はじめに

 某日、サンセバスチャン映画祭に赴いた大泉洋と安住アナがサンセバスチャンのバルで飲み歩きをしているTV番組を見て、「バスクに行きたいなぁ!」と呟くと、妻も「私もいきた〜い!」〜〜それから数日後、HISのサイトで「気軽にスペイン・フレンチバスク7日間」という添乗員同行ツアーを発見。日程を見ると、バスクの行きたいところを効率よく網羅しており、羽田発のルフトハンザを利用して、基本料金がなんと119,800円!(尤も後で確定した燃料サーチャージ24,000円や現地税11,280円等を加えると、最終的には158,690円になりましたが)・・・これはもう行くっきゃない“!と即申し込み。

 それからはビルバオやサンセバスチャンのバル情報をせっせと集めておりましたが〜〜役立たずで中国の腰巾着になり下がったWHOと、正面から習近平に立ち向かえない(=中国人全面入国禁止と言えない)安倍政権のせいで、「武漢ウイルス」が日本を侵し、次第に被害が広がり始め、気が付くと日本は中国に次ぐ罹患者数(その時点)で)になったではありませんか!

 ダイヤモンドプリンセス号の惨事も加わり、もうTVのニュースはこればかり(否、立民党はそれでも「桜」のほうが大事なようですが)・・・パリで日本料理店(中国人経営)のガラス壁に「Corona Virus」と落書きをされたり、東洋人がいじめられたといった情報も入ってきました。

 羽田空港内で濃厚接触が発生するかもしれないし、スペインはフランスほど人種差別が無いにしても、このありさまでは現地で冷たくされるかもしれないなぁ・・・心配の種が尽きなくなりました。でも「旅はいつ行くの?・・・今でしょう!」というわけで初志貫徹です。因みに、我が家や古巣の同期A氏を含め、無謀な(!)仲間は合計24名おりました。

 

一日目(2/20・木)

 フライトは1520発(LH717)で飛行時間は約11時間30分。集合は1250ですが、前日添乗員のM嬢からの電話で「希望の席を確保したいなら、LHの受付が10時から始まりますから、早めにどうぞ」。妻が「早く出ましょう!」ということで、10時過ぎにカウンターで中央通路側の席を確保。Mさんに席を伝えると、「事前集合はしませんから1450迄に搭乗口に行ってください」・・・搭乗までに長〜〜〜い時間があります。成田と違って羽田にはゴールドカード共通の居心地の良いラウンジがあります。そのカウンターに行くと、「新しいラウンジがLH搭乗口に近いですよ」ということで、新ラウンジに向かう。その部屋は2階の一角に設けられており、眺望はもとのラウンジに遥かに劣るが、殆ど利用者がいないので、“濃厚接触リスク”は避けられそうだ。ここでノン・アルコールドリンクを飲みながら新聞や週刊誌を読んで時間を過ごす。

   

 LHを利用するのは6年ぶりとなりますが、ANAとの共同運航便とあってか、搭乗すると機内は満席状態です。久しぶりの機内食はというと・・・

 (A)豚の生姜焼き、(B)鶏肉のピカタ&バタークリームヌードル・・・これに「細巻寿司、卵焼き、しそ巻、新生姜」と「パストラミ・チキン、ポテトサラダ」、「プラリネケーキ」と、パンとバターが添えられます。6年前とあまり変わらない水準(=星一つ半)ですね。最近はドリンクと食事を一度に配膳するフライトが多いですが、LHは昔通り、先ずドリンクをサーブして、その後2度目のドリンクと食事を配膳します。この辺りは律儀なゲルマン気質でしょうか?

   

(Aコースです)            (2度目はドック・サンド)

  12時間弱を飛んで、略定刻の19時過ぎに無事フランクフルトに到着。(いやぁ、やっぱり欧州便は疲れますね!) 乗り継ぎ時間は1時間40分なので、広い空港内をトラム移動すると、休む間もなく、そのままマドリード便(LH1120)への搭乗手続きです。

遅い便ですがこちらも満席。しばらくすると、暖かいマカロニグラタンと飲み物が提供されました。6年前の乗り継ぎ便は座席にミニサラダとビスケットのボックスがぽんと置いてあり、水が配られただけでしたから、これはサービス向上です。

23:25定刻でマドリード到着。20年ぶりのマドリード空港ですが、その当時とあまり変わったという気がしません。(=リニューアルされてきれいになったとは思えません!) 迎えのバスに乗って今夜の宿SENATOR CASTELLANA(セナトール カステリャーナ)の部屋に入ったのは翌日の午前1:30で、ベッドに横になると2:30を回っていました。いつもながらの長〜〜〜〜一日でした。

因みにこのホテルは観光の中心エリアから5kmほど北上した金融・商業地区に立地していますが、建って10年目ということで、非常にクリーンで快適なホテルで、“HISさん、頑張ったな!”と思いました。

       

 

二日目(2/21・金)

マドリード

 4時間弱の睡眠で起床。まだ外は真っ暗です。そそくさと身支度を整えて7時過ぎに朝食。クロワッサンやデニッシュのパンが美味しい。生オレンジ絞りのジュースや美味しい生ハムもあります。スペイン人の朝食の定番という、チュロスをホットチョコレートにつけて口に入れると、意外とイケます。最初の朝食は満足で、睡眠不足も飛んでしまいました。

   

  9時出発まで時間があるので、ホテル周辺を少し散歩。さすがに朝はヒヤッとしますね。8時過ぎ、大通りはたくさんの車が走っています。

       

(ホテル)               (大通り)                 (横道)

  ホテルの奥隣りのビルの前庭に桜のような花が咲いているのを妻が発見。多分アーモンドかな?

  さぁ、バスに乗ってマドリード見物に出発です。ビルの谷間から朝日が昇ります。いい天気になりそうです。

   

  カステリャーナ通りを南下すると、左手に「エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ」が見えてきました。レアル・マドリ−ドのホームスタジアムです。

(車窓からの眺め)          (その全貌)

 コロンブスの像があるコロン広場を過ぎると、道はレコレートス通りと変わり、直ぐに国立考古学博物館(=1867年に王室コレクションの保管庫として建設)。そしてシベーレス女神の噴水があるシベーレス広場の後ろにはコムニカシオネス宮殿(=1917年完成で、2007年まで中央郵便局として使用され、現在は市所有のアートセンター)といった歴史的建造物が見てとれます。

    

(コロン広場のコロンブス像)        (国立考古学博物館)                 (コムニカシオネス宮殿) ⇒(その鮮明な画像)

 木立の向こうにプラド美術館を見て、ソフィア王妃芸術センター(=ピカソのゲルニカを所蔵)を過ぎると、道の真ん中にトレド門が見えました。15世紀に当時のカスティーリア王国の首都トレドに向かう起点に設置されたのが起源で、現在のものは19世紀にフランス支配からの独立記念の凱旋門として建築が始まり、 20世紀末に市が完成させたそうな。

  

(木立の向こうにプラド美術館)         (トレド門とその全貌)

 〜〜そうこうするうちに王宮前に到着。・・・抜けるような青空の下、白亜の殿堂が輝いています。

    

 〜〜10世紀ごろにイスラム(コルドバ王国)の要塞があった地に1738年フェリペ5世が建設を命じ、カルロス3世の時代となった1764年に完成。150m四方の巨大な建物の中に2700もの部屋があるという。1931年に当時の国王アルフォンソ13世がローマに亡命するまで歴代国王が居住していたが、あまりに広すぎて使い勝手が悪く(=冬は寒い!)、先代のファン・カルロス1世が復帰して以降王家は別の宮殿に住まい、現在は国が管理して、王室の公式行事の折に使用されているという。

  スペイン王家の歴史

 此処でスペイン王国の系譜を見てみよう。

レコンキスタの終盤、対立していたカスティーリャ王国とアラゴン王国は、1469年にイサベル女王フェルナンド2世の結婚により連合王国となり、ローマ時代のヒスパニアを語源とするエスパーニャが王国の総称となった。事実上のスペイン王国の誕生である。

二人は1男4女の子を産んだが、長男ファンは夭折、次女フアナがハプスブルグ家の神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップ美公と結婚し、母の死後カスティーリャ女王の地位を継いだ。こうしてスペイン王家とハプスブルグ家が繋がることとなる。

イサベルに先立たれたフェルナンド2世は、紆余曲折を経て最終的にはフアナとフィリップ夫妻の長男カルロスをアラゴン王の後継に指名。母との共同統治者になったカルロスは母の死後その地位を継ぎ、いわば「最初のスペイン国王」となった。彼は又祖父マクシミリアン1世の地位をも継いだ。神聖ローマ帝国皇帝・カール5世にしてスペイン国王カルロス1世(在位15161556)はハプスブルグ家の最繁栄期に君臨し、又当時は大航海時代の真っただ中にあって、スペインを大帝国に築き上げた。西欧最大の君主となった彼は西ヨーロッパの統一とカトリック世界帝国の構築を目指したが、フランスとの抗争、宗教改革の嵐、スレイマン1世率いるオスマントルコの興隆等により、その野望を果たすことは出来ず、失意のうちに退位しその後は修道院に隠棲したという。

カルロス1世はポルトガル王マヌエル1世(=ポルトガルの黄金時代を築いた)の娘のイサベルを娶り、二人の間に生まれた長男フェリペ2世15561598 はスペイン帝国の絶頂期に君臨。1580年にポルトガル王・エンリケ1世(岳父のマヌエル1世と二番目の妻の子)が後継者を定めぬまま逝去すると、直ちに軍を率いてリスボンを陥落させて、ポルトガル王をも兼ねた。それはポルトガルの海外領土の併合を意味し、まさに“太陽の沈まぬ”帝国の誕生である。

彼も父と同じく熱心なキリスト教信者であり、カトリックの盟主と自らを任じた。1584年には伊東マンショ等の「天正遣欧少年使節団」を謁見,歓待している。

政治の世界では在位42年の治世を通して絶大な権力を発揮したフェリペ2世であったが、最初の妻ポルトガル王女・マリア・マヌエラ、次のイングランド女王メアリー1世(=ブラディ・メアリー)、さらにフランス王アンリ2世の長女エリザベートと、結婚相手と次々に死別し、家庭的には恵まれなかった。1568年に姪に当たる、オーストリア・ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の長女アナと結婚。

二人の間の長男がフェリペ3世15981621)。凡庸で「怠惰王」と呼ばれ、23年に及ぶ治世の間に祖父・父の築いた大帝国は勢いを失い始める。

フェリペ3世と、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の弟カール2世(オーストリア大公)の娘マルガレーテの間に生まれたフェリペ4世16211640)は政治的にはさしたる成果を上げることは出来ず、欧州強国の地位はかろうじて保ったものの帝国の衰退は決定的となった。1640年にはポルトガル貴族の反乱に始まった喝采革命によってポルトガルを失うこととなる。

彼は性温厚にして善良で、国民からは愛された。ベラスケスやルーベンスを保護して、数多くの傑作を描かせる一方、当時随一の目利きとしてヨーロッパ最高の美術コレクションを収集し、今日のプラド美術館の基礎を築いた。

フェリペ4世の最初の妻イサベルはフランス王・アンリ4世の娘で、二人の間には8人の子供が生まれ、末娘のマリア・テレサはフランスの太陽王ルイ14世の妃となった。(因みにルイ14世とマリア・テレサの結婚式は両国の国境近くのサン・ジャン・ド・リュズのサンジャンバティスト教会で行われた・・・今回の旅行でこの教会を訪れます) スペインとフランスは対立と紛争を繰り返すが、血縁的にはしっかりと繋がっていくのである。

フェリペ4世の二番目の妻マリアナ(神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の娘)との間に生まれた息子が後を継いでカルロス2世16651700)となったが、生まれつき病弱で、知的障害もあり、2度の結婚で子をもうけることは出来ず1700年に王位をアンジュー公フィリップに譲ると表明して逝去。フィリップ美公がイサベル女王の娘フアナの婿となって以来のハプスブルグ・スペイン王朝は断絶することとなった。何代にも亘って近親結婚を重ねた結果であるといえる。

ルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップがフェリペ5世17001746)として即位するが、これを承知しない周辺諸国との間で所謂「スペイン継承戦争」が勃発。互いに後継を主張するルイ14世のフランスとオーストリア・ハプスブル家の対立を軸に、主にフランスとイギリス・オランダ・オーストリア連合軍が1701年から13年に亘って各地で紛争を繰り広げる。連合国側が結束すれば有利であったが、互いの思惑から戦線は乱れて決着はつかず結局1713年ユトレヒト条約で講和。

フェリペ5世の王権は承認されたが、その代償としてスペインはナポリ王国、ミラノ公国、スペイン領ネーデルランドをオーストリアに、シチリアをサヴォイア公国に、ジブラルタル等をイギリスに割譲。又将来的にもスペインとフランスの統合は無いことになり、紛争の主因であったルイ14世の野望は絶たれ、ヨーロッパは新しい国際関係の時代を迎えることになる。

フェリペ5世の即位によってスペイン王国はハプスブルグ朝に代わってブルボン朝となる。彼はなかなかの実力の持ち主で、中央集権国家を目指し、軍事力の強化、産業や貿易の振興に努め国勢の復興に注力し、ナポリ、シチリアを奪回することに成功している。

1746年にフェリペ5世の次男が後を継ぎ、フェルナンド6世17461759)として即位。彼は物事をよく考えて行動することから“慎重王”と呼ばれたが、有能な家臣にも恵まれ内政面の改革、海軍の増強、インフラの整備等、国力の増強に一定の成果を上げた。

彼の後は、異母弟(フェリペ5世の第5子)でナポリ・シチリア王であったカルロス3世17591788)が即位。7年戦争(17561763)やアメリカ独立戦争ではフランスと同盟を結んでイギリスに対抗したが、さしたる成果は挙げられなかった。一方、内政面では有能な家臣を登用して首都マドリードの再開発を推進し、今に残る近代的な街並みを整備した。プラド美術館(=当時は博物館)や、先ほど通ってきたシベーレスの噴水やプラド通りもその好例だそうな。彼とマリア・アマリ(ザクソン選帝侯兼ポーランド王アウグスト3世の長女)の間には13人の子供が生まれた。

1788年にその中の次男がカルロス4世17881808)として即位。彼は無能な君主で狩猟に熱中し、国政は王妃のマリア・ルイザ(パルマ公の娘)と、そのお気に入りの宰相ゴトイの思うがままとなり、国民の信を失った。

話はそれるが、同時代の巨匠ゴヤの最高傑作は「カルロス4世一家の肖像」であるが、描かれたファミリーのうちの幼子二人は王妃とゴトイの子供と謂われ、またプラド美術館のメダマ「裸のマハ」は宰相ゴトイがゴヤに描かせたものである。

 カルロス4世の即位から約10年後、隣国フランスではナポレオンが台頭し、第一執政として事実上フランスの独裁者となった。宰相ゴトイが差配するスペインはナポレオンと同盟しイギリスと対立するが、トラファルガーの海戦で全艦隊を失う破目となる。1808年なおもゴトイを擁護しようとする王に怒った民衆がアランフェスで蜂起。この事態に王は退位し、息子のフェルナンド7世180818131833)が即位する。

 彼はナポレオンの支援を期待するが、ナポレオンはスペイン支配を考えており、フェルナンドを退位させて実の兄ジョセフを王位につける。ナポレオン支配に反対する民衆が蜂起し、それをイギリスが支援して、フランスとの間に7年に及ぶ「スペイン独立戦争」が勃発。

 1814年ナポレオンは連合軍に敗北し、フェルナンドは民衆の歓呼に迎えられて王位に復帰するが、彼も父と同様(ある意味ではそれ以上)に無能で国力の衰退、植民地の喪失を招き、軍隊の反乱や民衆の暴動が起きて反乱側に逮捕されるが、介入の為侵攻してきたフランス軍の援けで王位に復帰。その後彼を支援 する王党派も目をそむけるほどの恐怖政治を行った。

 余談ながら、マカロニウエスタンや西部劇映画でよく見るメキシコ紛争は、この折の植民地メキシコにおける独立派とフェルナンドを支援する独立反対派の闘いをテーマにしたものである。

 1829年フェルナンドは両シチリア(ナポリとシチリア)王の娘マリア・クリスティーナと4度目の結婚。ブルボン朝成立以来皇位継承は男子に限られていたが、二人の間に男子は生まれず、妃マリア・クリスティーナは夫を説得して長女のイザベルを擁立し、イザベル2世18331868)として女王の座に就けた。しかしこれを認めないポルトガルに追放されていた)フェルナンドの弟がカルロス5世として即位を宣言し、内戦が勃発。7年に及ぶ紛争の後ようやくイザベルの王権が確立したが、彼女も又無能で、国内は動揺と混乱が続いた。18689月「名誉革命」が起こり女王はフランスに亡命。

 イザベル2世亡命後、実権を握ったファン・ブリム将軍一派はサヴォイ家からアマデオ1世18701873)を迎え王位につけるが、将軍の暗殺によって後ろ盾を失った王は即位からわずか3年で退位に追い込まれ、スペインは共和制となる。(第一次共和制)

 しかし国内の混乱は収まらず、これまた僅か2年で再び王政に復古。母イザベル2世と共にパリに亡命していた息子のアルフォンソ12世18741885)が1874年に国王に即位。苦労人の彼は的確な判断力を持ち又慈悲深く、国民の信頼を得て、スペインに平和が戻ったが、在位10年の1885年に肺結核で病死。

 アルフォンソの2人目の妻マリア・クリスティーナ(オーストリア大公カール・フェルディナントの娘)との間に生まれた長男がアルフォンソ13世18861931 として1886年に即位。彼は父の死後に誕生し、出生と同時に国王となった。父の死亡時、妻マリアのお腹の子の性別は当然ながら不明であったため、男子とわかると国民は歓喜して新国王の誕生を祝ったという。13世は16歳から親政を開始し、頻繁に海外を訪れ、ロンドンで出会ったヴィクトリア女王の孫娘ヴィクトリア・ユージェニーと1906年に結婚。

 1914年第一次世界大戦が勃発すると、13世は絶対中立を宣言し、国内は平和が保たれ、軍需産業で大いに潤ったが、その恩恵を受けたのはブルジョワジーのみであり、一般市民の暮らしは悪化の一途を辿り社会不安が増大。騒然とした情勢のなかで王は1931年に海外に亡命。(死の直前に、亡命先のローマで退位し、名目上の王位を四男のファンに譲る)

・・・かくて第二次共和制を迎えることとなるが、1936年の選挙で左派が勝利し、人民戦線内閣が誕生すると、右派の中心的人物であったフランコは参謀総長を解任されカナリア諸島総督に飛ばされる。数か月後モロッコでの右派軍の反乱を契機にフランコは本土へ侵攻し、やがて反乱軍の総司令官となり、ブルゴスにて国家元首就任を宣言。

彼はドイツやイタリアの支援を受けて人民戦線との内戦に勝利し、独裁体制を確立。第二次世界大戦が勃発すると、中立を宣言するも、ナチスが優勢と見るや、ヒットラーと蜜月関係を結ぶ。しかし連合国側が優勢になると、再び中立を宣言。こうした日和見的態度で、連合国側、特にアメリカから大いなる不信をかったが、ともかく自国及び植民地を戦禍から守ることに成功した。

反共産主義という点では欧米と一致していたため、冷戦のさなかにおいてアメリカもフランコ体制を容認せざるを得ず、戦後も独裁政権は続いた。彼が他の独裁者と異なったのは、最終的には王政復帰を考えており、1969年にアルフォンソ13世の孫ファン(亡命先のイタリア王室の国外追放に伴い、スペインに戻っていた)を皇太子に指名して帝王教育を施し、1975年に83歳で波乱の生涯を閉じた。

  フランコの死後、ファンはファン・カルロス119752014)として即位。祖父アルフォンソ13世の亡命以来じつに44年ぶりにスペインは王政に復帰した。彼はフランコの権威主義的体制を受け継がず、総選挙の実施、新憲法の発布と矢継ぎ早に民主化を推進し、王は名目上の君主となる立憲君主体制を確立した。(逆説的ながらフランコの人を見る目は正しかったといえる!)〜〜こうして新王は国民の支持を勝ち得たが、晩年は重なる浪費や、わけてもボツワナでの象狩りを強く批判されて国民の信を失い、2004年に退位を余儀なくされ、息子に王位を譲った。

 新国王フェリペ6世は2m近い長身でスポーツマンとして知られる。2004年に平民出身で国営TVの敏腕キャスターのレティシアと結婚し、二人の娘がある。見栄えよく、表面的には華やかな一家であるが、本人に今一つ国民的魅力が無い一方、王妃レティシアは、結婚前の交際(堕胎)、整形美人云々等様々な良からぬ噂で国民の不興を買うことが多い。(平民出身、美人で気の強いやり手・・・メーガン妃と似たところがある?!)

 更には現国王の姉夫婦の公金使い込み等、現王室にはスキャンダルが相次ぎ、次に王政が倒れるのはこのスペイン王室であると噂されるほど前途多難であるらしい。

(幸せそうな国王一家)

 だいぶ横道にそれましたが、さぁ観光に戻りましょう。・・・王宮前のオリエント広場中央にはフェリペ4世の騎馬像がある。父3世の騎馬像(マヨール広場にある)より優れたものが欲しいという王の要望で製作され1834年にイサベル2世の命令で此処に設置された。前足を上げた騎馬像は世界初の試みであり、4世の希望通り、芸術的には勿論、技術的にも最高傑作と評されている。

    

 広場の両サイドには20体の人物像が立っている。レコンキスタを行ったキリスト教国や、さらに昔の西ゴートの王たちの像である。フェルナンド6世の時代に製作され、当初は王宮の上に設置する予定であったが、重すぎて、此処やレティーロ公園、サバティーニ庭園などに分散設置されているそうな。

  

 通常ならここから北のスペイン広場へ向かうところでしょうが、現在改修中・立ち入り禁止だそうで、南の方へ歩いていきます。この辺りけっこう坂が多いです。高台からアルムデナ大聖堂の威容が見えました。1561年、フェリペ2世が首都をトレドからマドリードに移して以降、大聖堂建設の計画はあったが、なかなか実現せず、1993年に漸く完成しました。2004年には現国王とレティシア妃の結婚式が行われました。

アルムデナとは・・・その昔マドリードの人々は「木製のマリア像」を信仰していましたが、8世紀初めイスラムに征服された際、像を金庫に収めて街を囲む城塞の壁に隠しました。そしてレコンキスタ成った370年ほど後にその像を発見したそうです。アラビア語で城塞を「アルムダイナ」ということから、このマリア像を「アルムデナ」と名付け、大聖堂の守護聖母としたそうです。  近年の完成ですから、内部の装飾は驚くほどモダンでカラフルだそうです。だれでも入れる(無料)そうですから、入場して拝観したかったですね。

  

(大聖堂と、その内部こんな↑だそうです)

 小さな教会を抜けてマドリード最古の広場(=1537ビリャ広場へ。正面の像はアルバロ・デ・バサン(サンタクルス侯爵)・・・彼はフェリペ2世時代の海軍提督でレパントの海戦などで数々の軍功をたて、“スペイン海軍の父”と称えられた人物。その後ろは修復中のシスネロスの家・・・1537年建造の重要建築物だそうです。

 その向こうはカサ・デ・ラ・ビリャ・・・1693年に完成した建物で、現在は市庁舎の分舎らしい。

    

 (チオイサナ教会)       (アルバロの像とシスネロスの家)             (カサ・デ・ラ・ビリャ)

 きれいな赤茶色の建物群を抜けて・・・サンミゲル市場へ出ました。此処は後で戻ってくることにして〜〜

    

 「クチリェロスのアーチ」の階段を上がると、マヨール広場です。14世紀にはアルバラ広場と呼ばれ、既に庶民の市場があったそうですが、フェリペ2世が整備を命じ フェリペ3世の代になって1619年に完成。その後大規模火災があり、今見ているのは1790年、カルロス4世の時代にファン・デ・ビリャヌエバの設計によって再建されたものだそうな。(ビリャヌエバはプラド美術館も設計している)

 中央にあるのが、フェリペ3世の騎馬像・・・ルネッサンス後期の彫刻家・ジャンボローニャが手掛け、トスカーナ大公コジモ2世からフェリペ3世に贈られた。長く王室の狩場であったカサ・デ・カンポ(現在はスペイン最大の都市公園)に置かれていたが、1848年にイザベル2世が現在の場所に移設させた。

      

 燈籠の下、円形の基部の周りには、何かのストーリーでしょうか、絵が彫り込まれています。

    

 クチリェロスのアーチから反対側に抜けると。マヨール通りに出ました。様々な店が軒を連ねています。我が家はどうしても食べ物屋に目が行ってしまいます。(笑)

      

 マヨール通りを少し下ると、プエルタ・デル・ソル=太陽の門広場です。スペイン国道の起点となっている場所で、道路上に「0メートル」を示す基盤が埋め込まれています。大晦日の夜には此処でのカウントダウンがTVE(国営テレビ)によって放映されるそうです。

  

中央にはカルロス3世の騎馬像があります・・・後ろの建物の「ティオペペ」(=スペインを代表するシェリー酒のブランド)の文字が目立ちます。

少し先へ進むと、「熊とイチゴノキ(=ヤマモモ)」の像がありました。これはマドリード市の紋章を表しているそうです。何故,熊とヤマモモの木がマドリードのシンボルなのか?・・・諸説あるわけですが、土地っ子が好むエピソードが〜〜昔々アンデルセンがこの地を旅した時にこんな場面に遭遇したそうです。・・・母親たちとピクニックに来ていた子供が熊に襲われてヤマモモの木によじ登った。慌てて母親の一人が助けに寄ろうとしたが、子供は「お母さん、逃げて!(=Mudrehuld!)」と叫びました。MudrehuldがなまってMudridになったそうです。

 ついでに熊の周りを囲む七つ星は?というと、大熊座の北斗七星を表しているそうです。この広場は市民のお気に入りの場所で、熊の像の周辺は渋谷のハチ公前みたいなものかもしれませんね。

    

 さぁ、此処で一旦解散して、後は自由行動。夫婦はマヨール通りをサンミゲル市場方向へ戻ります。途中、妻が「あそこのハム屋のバケットを食べてみたい」というので立ち寄り。天井には脂受けの漏斗を提げた生ハムがズラリ。ショーケースにはバケットにハムヤソーセージを挟んだサンドが並んでいます。次々と客が入ってきて人気店のようです。生ハムを挟んだけの15cm位のバケットを購入。店の前で噛り付くと・・・€1.2と安いですが、ハムはともかくバケットの味がイマイチでまぁ、値段相応の味でした。クロワッサン・サンド(€1.8)の方がよかったかな?

    

 市場の向かいの歩道を下って「メゾン・デル・シャンピニオン」(Maison del Champinion)へ。Mさん(添乗員)一押しの店で、店名通りマッシュルームのソテーが名物だそうです。日本人にも人気スポットのようで、入口の壁には日本語表示もありました。

  

 中に入ると、カウンター手前にはマッシュルームが山積みに!

  

 奥のテーブル席の周りは“洞窟レストラン”風の構えです。両方の壁の絵がいいですね!。既にツアー仲間の何組か食べ始めており、我が家の後も次々とやってきて、「HISツアー」貸し切り状態となりました。

  

 日本語表示もあるタブレットでの画面を見て、看板商品のマッシュルームと、ししとうの素揚げ、それにリオハの赤ワインをオーダー。・・・マッシュルームのソテーは本当に美味しい!シンプルな料理なのにジューシーで、旨味タップリ。パクパクとイケちゃいます。ししとうの素揚げもあっさりとした味わいでウマイ。(因みに料金はマッシュルーム€7.5、ししとう€7.9、グラスワイン€1.9×2、パン€0.5。IVA=付加価値税10%を加え€17.73でした・・・値段もリーゾナブル)

    

 次は、サンミゲル市場へ。近年に改装されたようで、外観も中も綺麗です。市場風情の店もありますが、どちらかというと観光客目当てのフードコートが主体です。従って値段もやや高め。

  

    

(専門店)

      

(ちょいと上級なピンチョス群)

 カラフルで美味しそうな様々のピンチョスが並べられており、“迷い指”状態になってしまいますが、ピンチョスは明日以降のバスクのお楽しみに。此処の生ハムは「結構しょっぱい」というブログコメントが多かったのでパス。〜〜ということで、パエリアの店を見つけて、妻が大好物の「イカ墨パエリア」を選択。大・中・小とあって、中サイズは€14。店員がてんこ盛りにしてくれて、2人分は十分あります。バーコーナーでグラスワイン(白)を求めて、中央のテーブルになんとか2人分のスペースを確保。で、イカ墨パエリアは?というと・・・イカ墨の味はしっかりとしていますが、コメがパサついてどうもイマイチです。(妻)「やっぱり、バルセロナのは美味しかったなぁ!」

    

 集合時間が迫っていますが、此処を出る前にトイレを済ませる必要があります。トイレは建物の隅の地下。有料ですが、飲食のレシートを渡すと無料です。

1時過ぎに王宮前地下の駐車場に戻って、さぁ、ブルゴス目指して出発です。

    

 途中車窓からは、春めいた青草が茂る丘陵や、スペインらしい岩山が見てとれます。

    

ブルゴス

 マドリードから北へ約210km。途中休憩を挟み、3時間半ほど走って4時半前にブルゴスへ到着。ブルゴスは歴史的にバスク地方とカスティーリャ地方を結ぶ交通の要衝で、13世紀にはカスティーリャ王国の首都となった。又サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼への結節点でもあります。

 そうした古都であるが、今夜の宿「レイ・アルトゥーロ」は、残念ながら、街から少し離れた丘陵の中の“ポツンと一軒家”状態で、輸送トラックドライバー向けのモーテルといったところ。

    

 荷物を部屋に入れると、Mさんにお願いしてタクシーを呼んでもらい、街の中心に出かけます。“ブルゴス大聖堂を見なくちゃあ!”というわけで、我が家やA氏を含め12名ほどが慌ただしく出発です。1台目にA氏と我が家、そしてKさんが同乗。(因みにこのKさん、スペイン語がペラペラで、なんでもJICA海外協力隊でホンジュラスに2年行っていたという活動的な女性です)

 Mさんが「サンタマリア門の手前で降りて歩くことになります」と言っていましたが、走ること15分ほど。「さぁ、着いたよ」ということで、車を降りると、目の前にゴシック様式の壮麗なファサードがあります。

 「入場料は€8です」という話でしたが、ファサード正面横の扉から中に入ることが出来ました。しかし少し進むと「観光客は入室禁止」という表示があります。  

 ”ン?なんか変だぞ“とウロウロしているうちに、他の3人の姿が消えました。外へ出ると、階段の下の向こうで、妻が「こっちだわよぉ!」と手を振っています。

    

(ファサード側からの堂内)

 我々の運ちゃんが気を利かせすぎたか、イレギュラーな場所へ導いてしまい、通常だと下の写真の通り・・・アルランソン川に架かる橋を渡って下車し、サンタマリア門を潜ると〜〜広場が広がって目の前に壮大な大聖堂が見えて、“わぁ、すごい!と歓声を上げる・・・という段取りなんです(でも通常コースを辿っていたら、ファサードは見逃したかもしれません)

    

 ようやく然るべき場所に辿り着いて、€8を払って入場です。受付の女性・・・「どちらから?」、「ハポン!」、「はい、どうぞ」とガイドフォンを渡してくれますが、日本語ではなく、英語のガイドです。我が家はチンプンカンプンなので首にぶら下げているだけですが、KさんとA氏は熱心に耳を傾けていました。(A氏はそんなにヒヤリング能力があったのか!)

 さてブルゴス大聖堂は1221年カスティーリャ王フェルナンド3世の代に、当時の司教が提案して建設が始まりましたが、その後百年戦争やペストの大流行などがあり、200年近く中の中断があり、1567年に漸く完成した。セビーリャ、トレドと並ぶスペイン3大聖堂の一つであります。

 通称「秘蹟の扉口」と呼ばれる側の観光客用の入り口から入堂。入口上部の彫刻が見事です。キリストが真ん中に座って智恵の書を手に持ち、四人の福音書記者に囲まれています。左上の鷲のシンボルの上にいるのがヨハネ、そして右上の天使のシンボルの上にいるのがマタイ。左下の獅子のシンボルと共にいるのがマルコ、右下の雄牛のシンボルと共にいるのがルカです。その下には福音書を手にした12使徒の像が彫られています。こうした箇所にも丁寧にキリストのストーリーを盛り込むところがスゴイですね!スペイン13世紀の彫刻の傑作だそうです。

    

  堂内に入ります。何せ完成までに(200年の中断期間を含めたとはいえ)340年余かけていますから、その間に拡張が進み、主祭壇の周りに23もの礼拝堂(Capilla)が設置され、迷子になりそうな複雑な構造になっています。カトリックの大きな教会は、スペインでもイタリアでもこうした礼拝堂が配されていますが、此処のスゴイところは一つ一つの礼拝堂がデカイことです。それぞれに独自のデザイン(?)と装飾が施されており、実に見応え(!)があります。

      

    

 礼拝堂の中で、特に重要とされているのが「コンデスタブレ=元帥の礼拝堂」。1492年にイスラムからグラナダを奪回したベラスコ元帥を記念して造られたもので、祭壇の前には夫妻が眠っている。天井の星型の透かし模様のデザインと、ステンドグラスがとても美しい。

      

各お堂の彫刻も見事です。

    

天井の装飾がそれぞれ異なったデザインで、鮮やかです。

    

    

円形の「バラ窓」や、ステンドグラスも美しい。

  

    

アーチを織りなしたような回廊の天井が素晴らしい。

    

 回廊の窓から中庭が見えました。

歩いて回っているうちに、その中庭に出ました。見上げると、この大聖堂の建築の複雑さが実感できます。

    

                         (ご一緒したKさんと)

 出口の手前は絵画が展示されています。イエスに纏わる宗教画ですが、有名画家の絵は無いように思いました。

    

 写真を撮りながら、急ぎ足で回っても1時間半以上かかりましたが、じっくり見て回ると3時間くらいは必要なようです。本当に来てよかったです。外へ出ると、7時過ぎなのにまだ明るいです。タクシー乗り場へ急ぎます。

 サンタ・マリア門を出ると、遊歩道は石畳の歩道、グリーベルト、川沿いの道と“三重”になっていて、全体で美しい遊歩道です。春を思わせるような爽やかなトワイライトタイムとあって大勢の人が散歩しています。歩道の、幹だけになって何かのオブジェのようなプラタナスの並木がファンタジックです。グリーベルトゾーンもよく整備されていて、この辺りを歩いているだけで幸せな気分になってきます。

    

(サンタマリア門前の橋の上)    (川沿いの道・・・人物はA氏)  (プラタナスの幹が面白いオブジェのよう)

    

(グリーンベルトの植木はきれいに剪定されていました)

 先に進み市立劇場の建物を回ると、ロータリーになっていて中央に「エル・シド」の馬上姿の像がありました。

  

エル・シド

 ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(通称エル・シド=1045?〜1099))はブルゴス近くの小さな町ビバールで軍人の子供として生まれ、カスティーリャの王子サンチョ2世の小姓として育つ。1065年にフェルナンド1世が亡くなり、長子のサンチョ2世がカスティーリャ王となり、ロドリゴは王の信頼厚い武人として活躍する。

ところが王は1072年に暗殺され、敵対していた弟のアルフォンソ6世が王位を継ぐと、ロドリゴは追放されてしまう。新王は武勲目覚ましいロドリゴに民心が集まるのを恐れたという。

追放後もロドリゴの下には彼を慕う多くの兵士が集まり、彼はバレンシアの征服に乗り出し、1094年にイスラムからこの地を奪回し、遂に一国一城の主となった。幽閉されていた妻子を取り戻し、その後5年間領主として統治した後に亡くなっている。死期を悟った彼は食を断って死体が保存できるよう準備をし、死後台座に座ったまま愛馬に乗って巡行したという。1097年のイスラム(ムラビト朝)との闘いで一人息子のディエゴを亡くしており、領国の行く末を案じてのことであろう、

果たして彼の死後、妻メヒナが統治するが、再びムラビト朝の攻勢の前に、メヒナはブルゴスに戻った。その際に夫の遺骨を持ち帰り、今はブルゴス大聖堂の身廊と側廊の交差した床に埋められているという。(しまった、見逃しました) そして、目の前の銅像が手にしている彼の愛用したと伝わる剣は、現在ブルゴス博物館に飾られているそうな。

 余談ながら、17歳(高校2年)の夏に初めて上京し、おじに連れられて日比谷映画(だったかな?)で、映画「エル・シド」を観ました。70ミリフィルムの大画面で迫力ある歴史劇を見て興奮した思い出があり、チャールトン・ヘストン演ずるエル・シドの雄姿が今でも脳裏に残っています。ラストシーンは戦死したエル・シドの遺体が馬に乗せられて海辺を走り、その姿を見たイスラム兵が逃げ、彼の軍が勝利するというものであった。当時単純な私は、エル・シドは悲劇の英雄だと思い込んでいましたが、本人は一介の騎士からのし上がって、一応とはいえ、バレンシアを獲得して王になるというハッピーエンドを迎えていたのですね。

(映画エル・シド・・・ヘストンと妻役のソフィア・ローレン)

〜〜銅像をじっくりと見てそんな感慨に浸る間もなく、タクシーに乗って、きれいな街を離れると、殺風景な丘陵の中を走ってホテルへと戻ります。車を降りると、夕焼けが綺麗でした。

今夜はツアーで唯一夕食が用意されています。(後は朝食のみで、昼・夜はフリー) スペインの夕食は9過ぎてからが普通だそうですが、Mさんが頑張って845からです。 料理は3品。大きなスープ皿にひよこ豆のスープが大盛り(味は悪くないが量が多すぎ)、メインは小ぶりのチキンソテー&ポテトフライ、デザートはプリン。実は出発前にMさんからメイン料理を聞いていたので、ブルゴスに残ってバルへ行こうかなと思っていたのですが、4人同一行動だとそうもいかず、残念でした。

    

 今回のツアーでこのホテルがワーストワン。料理もそうですが、チェック・イン時にMさんから「部屋のスティーム暖房をマックスにしておいてください。何故か夜中に暖房を切ってしまうので、それまでに部屋を暖めておいてください」と忠告がありました。食後、段取りを済ませて寝ようとすると、11時過ぎにもう暖房がストップ。ベッドの上にはバッドカバーのみで、これでは寒くてどうしようもありません。毛布を探しても見つかりません。仕方がないので、妻はダウンコートを着て、私は厚手のパジャマに着替え、ベストを着こんで一晩寒さに耐えました。高齢者の身でよく風邪をひかなかったもんだと・・・いやまぁ、とんでもないホテルです。

 翌日の朝食は、わりあい“まとも”でした。

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