四日目(2/23・日)

 朝食(結構充実しています)を済ますと少し時間があるので近くを散歩。日曜日の朝8時過ぎとあって、人通りはありません。清掃車、散水車が通りを綺麗にしていました。緩やかな坂を進むと木立の向こうが広場になっており、その先にモダンな教会がありました。

    

ゲルニカ

 約45分走って、ゲルニカに到着。ゲルニカは人口17千人弱の小さな都市(=基礎自治体)。しかし歴史的には代々のビスカヤ領主、そしてその地位を受け継いだカスティーリャ王もその称号を受ける前にこの町でビスカヤの自治を尊重するという誓いの儀式を行ったという、由緒ある誇り高い町だそうな。

スペイン内戦中の1937426日にフランコ軍が攻撃を行い、支援するドイツ空軍コンコルド軍団の爆撃機が空襲をかけ町の大半を破壊した。歴史上初めての“無差別爆撃”と謂われ、千人を超える無辜の民が犠牲となった。世界中から非難の渦が巻き起こったが、フランコは「バスク民族主義者の自作自演である」と謀略宣伝に努めたという。(因みに、無差別攻撃といえば、1945310日の米軍による無差別大空襲で東京市民のうち10万人以上が犠牲になっています。終戦前とはいえ、米国フランクリン・ルーズベルトの暴虐非道は忘れてはならないことでしょう)

駅前でバスを降りると、日曜日の10時前、小さな町はまだ眠っているかのよう。現地ガイドが(英語で)町の中を丁寧に案内してくれる。

  

(バスク鉄道のゲルニカ駅舎と駅前通り)

広場の銅像は、(足元の銘鈑を読むと)1936年にバスク自治州の初代大統領に就任したホセ・アントニオ・アギーレ。一時は10万の軍隊を組織するもののイデオロギーの異なる連合で統一を欠き、その後フランコ軍に敗れた彼はパリに逃れる。そこで亡命政権を樹立するが、パリがナチスの前に陥落すると、次は偽名を使ってブラジル〜ウルグアイと転々し、やがてアメリカに渡ってコロンビア大学の教授を勤め、第二次亡命政権を樹立。

アメリカを刺激しないため共産主義者と決別し、バスク亡命民族主義者の広範なネットワークを作り上げ、海外からフランコ政権に抵抗。1952年アメリカがフランコ政権を承認すると、再びパリに移り、1960年心臓発作で波乱の一生を終えた。まさに徹頭徹尾民族主義者として生涯をかけて戦った鉄の意志を持った男、バスク人の典型といえよう。(昨夜、ビルバオの大通りにも彼の像がありました!)

 綺麗な街並みの側に、空爆直後の写真パネルがありました。(ゲルニカの人々は空爆を決して忘れないようにしているのですね)

    

 ガイドの後をついていくと、П型になった建物に囲まれた広場(フエロス広場)に出ました。左側が平和博物館、その向かい側が市庁舎です。中央の銅像は誰だか分かりませんが、ポーズからしてビスカヤの自治尊重の誓いを立てる王ではないでしょうか?

    

(市庁舎)

 さらに坂を上がると、ピカソのゲルニカの複製壁画(実物大)があります。この絵がゲルニカ空爆の悲劇と、ゲルニカの町そのものを何よりも強く世界にアッピールしたといえますね。

(ゲルニカの壁画)           (ソフィア王妃芸術センターのゲルニカ)

 先に進むと見えてきたのが、サンタマリア教会・・・15世紀に建てられたゴシックとルネッサンス様式を折衷した建築。3層の鐘楼が印象的です。例の空爆から建物の殆どは残ったそうです。神のご加護か!

    

 この辺りは町の高台になっているので、見晴しがいいですね。〜〜やがてバスク議事堂が見えてきました。この建物は1833年建設です。

    

 議事堂の議会室に入ります。奥中央の議長席をぐるりと馬蹄形に囲んで議席が並んでいます。壁には歴代議員の肖像画が掲げられ、天井のシャンデリアが豪華です。

  

(正面奥に議長席)                      (入口方向)

 ↓左の絵は「ビズカヤ領主のオークの木の下での会議」、中央は「1476年、フェルナンド5世の指輪にキスをするビズカヤ市民」を描いたもの。ステンドグラスは当時の市民の暮らしがテーマだそうです。

    

 奥の別室に入ると、天井いっぱいのステンドグラスに圧倒されます。「ゲルニカの木」が描かれています。この樫の木はバスク、ビスカヤの自治の象徴だとか。

    

 中世時代、バスク地方の太宗を成すビスカヤの村々は大木の下で集会を行ったことから、大木=「オークの木」がこの地の人々の自治の象徴として、大切にされてきた。{ゲルニカの木}の初代は14世紀に植えられ450年ほど生きたという。2代目は1811年に植えられたが、枯れた後の幹は現在敷地の聖堂の中に据えられている。3代目は1860年に植え替えられ、議事堂と共に空爆を無傷で切り抜けたが、その後菌病に侵され、政府はその木のドングリから苗を育て、現在4代目が議事堂前に立っている。

  

(聖堂内に据えられた初代の木)

 現在の4代目は、今は冬場とあって葉を落としているが、夏には葉を茂らせて上のステンドグラスの如くとなる!・・・これがゲルニカ市の紋章になっています。

   ⇒  

 正門入口はフリーに入場できましたが、礼拝堂(?)を過ぎた裏門(?)には二人の警官が立っていました。

  

 〜〜僅か1時間の徒歩見物でしたが、充実したツアーでした。激しくも悲劇的な歴史を持ったゲルニカの町は誇り高く、静かで緑豊かな美しい町でした。

サンセバスティアン

 ゲルニカから95km、1時間半ほど走って、サンセバスティアンに到着します。

観光バスは市街に入ることは出来ず、ウルメア川に架かるサンタ・カタリナ橋の向こうの広場の地下駐車場に留まります。ビスケー湾に注ぐ川の最下流にかけられた橋はこの町で最古の橋だとか。橋の飾りは豪華絢爛です。

  

      

 これから3時間余り、自由行動で一行はバル巡りに向かいますが、バルが密集する旧市街までは徒歩で30分弱、従って賞味は時間余りしかありません。私は折角だからコンチャ湾が見渡せる高台に上ってみたいと思っていました。こんな晴天の絶好のチャンスを逃すわけにはいきません。

 本当はケーブルカーでモンテ・イゲルドの頂上に行ってみたかったのですが、旧市街からはバスで往復しなければいけないので、時間的にちょっとリスキーです。そこで旧市街の先のモンテ・ウルグルに行くことにしました。妻は「大丈夫なの?」と心配顔ですが、標高123mの小高い丘みたいなもんだから、高齢者でもまぁ何とかなるだろうろうと、一行と別れて旧市街の奥へと進みます。突き当りにサンタ・マリア・デル・コロ教会が見えてきました。

    

 教会の前の通りを左に折れ、階段を上がって進んでいくと、登り口がありました。さらに進んで行くと・・・砲台がありました。此処は昔、重要な軍事拠点だったのです。ここからコンチャ湾が見晴らせます。

    

 本当に素晴らしい眺めです。

    

  (湾の中央に浮かぶサンタ・クララ島の向こうはモンテ・イゲルド)

 この先は急な階段を上がって、モタ城の域内を目指します。

    

 どうにかこうにか展望広場に到着です。コンチャ湾が一望できます。素晴らしい眺めです。

 ベンチで一休み。昼食抜きになることを考えて、バス駐車場の売店で買ってきた「ガトー・バスク」をほうばります。こういう場所で食べると美味しいですね。

  

(このショップの店先に並べてあった、ガトー・バスク=1個€2)

 エネルギーを注入すると、さぁもう少し先へ・・・キリスト像が見えてきました。古来からの要塞であったモタ城の中に1950年に建設されたそうです。

    

 もうこの辺りでよかろうと、モタ城の中までは行かずに引き返します。急な階段を下るのを心配しましたが、「女坂」とでも言いましょうか、緩やかな坂道があったので、危なげなく降りることが出来ました。出発点に戻ると、まだ2時過ぎなので、じゃぁ、バルに寄ってみるか!

  一番近いバルのガンダリアスに近づくと、店の前は何やら黒山の人だかり・・・前の広場で賑やかにパフォーマンスが繰り広げられています。若いおまわりさんも歌って踊って・・・陽気なカーニバルイベントの真最中です。

    

 そんなわけでガンダリアスの店内は超満員。注文もするのも、立食の場所を確保するのも大変です。(ピンチョス4個、チャコリ、ビールで合計13)

    

  

 まだ時間があるので、次はラ・ヴィーニャに行ってみよう。此処の名物は「バスク・チーズケーキ」です。カウンターの隅に「ホール」が並んでいます。チャコリを注文すると、お兄さんは高いところからグラスに注ぐ“定番”のパフォーマンス。カメラを向けるとニヤリと笑って「写真は5ユーロだよ!」と。チャコリはバスク地方 で好まれる微発泡性白ワイン。アルコール度数が少し低く(9.511.5、辛口ワインは10.514.5)、スッキリとした飲み口でピンチョスに相性がいい。

    

 で、肝心のチーズケーキ。1切れをツーピースに分けて出してくれます。そのお味はというと・・・なめらかで甘さは控えめで、中はトロリと柔らかい。チーズの風味も申し分なく、噂どおりに大変美味しいチーズケーキです。(ケーキ5、チャコリ2杯で.5

  

(店先にはチーズケーキの看板が出ています)

 4時に集合してホテルへ向かいますが、気を利かせたドイライバーがその前にコンチャ湾中央のビーチへと案内してくれます。(実は2日目の朝にバスのエアコンが故障してしまい、週末なので修理が出来ず、それからエアコン無しで走行したので、そのお詫びということですが、これは有難いサービスです)

 ビーチ中央から眺める湾の景色も又格別です。

      

 ビーチから上がった芝生の広場の上に、お城風の建物があります。ミラマール宮殿です。19世紀半ば以降、スペイ王家は夏をこの町で過ごすようになりましたが、アルフォンソ12世が亡くなった後、王妃のマリア・クリスティーナがイギリスの建築家センデル・ワーナムに設計を依頼し、王位を継いだ息子の13世が7歳の1893年に宮殿は完成しました。当時の敷地は8万uと広大なものでしたが、紆余曲折あって広さはその40%位となり、1972年に市が買収し、現在は市立ミラマール宮殿となっていると。

    

 5時前にホテルに到着。昨日は町の中心部でしたが、今日は市街地からかなり離れた高台にあるパラシオ・デ・アイアテです。室内はまぁまぁですが、やはり立地がねぇ・・・。

    

 市バスで旧市街へ出ようかと思いましたが、ツアーバスを20分後に出してくれる(但し。実質往きのみで、帰りは自力)というので、部屋に荷物を入れると直ちにバスに乗ります。(これが後の禍いの源?)

再び、昼間と同じ川向うの地下駐車場で降りて、サンタ・カタリナ橋を渡って旧市街を目指します。カーニバル最終日曜日の夕方とあって、街は大賑わいです。噴水前の大通りの両側を人が埋め、その中を歌や踊りのパレードが通過します。山車も次々と登場です。次の通りへ行っても又パレード・・・といった様子で、旧市街全体で大盛り上がりです。

       

 さて、今夜のバルは先ず、シーフードに定評のあるゴイス・アルギ。6時過ぎとあって、先客はまだ2組。親子3人の家族経営で、意外と小さな店です。壁に張ったメニューはスペイン語と対比して日本語が表示されています。日本人にも人気なんでしょう。

      

 オーダーしたのは3品。 エビの串焼きのピンチョス・・・フレッシュなプリプリの海老です。チャングロ・・・四角い小鉢にカニ味噌のペーストが入っており、ミニバケットに付けて食べます。このペーストが絶品で、カニ好きには堪らない味です。イカのソテー・・・小ぶりのヤリイカでしょうか、柔らかく新鮮で美味しい。(チャコリ€2×2、エビ€3×2、カニ€3、イカ€3.9 合計16.9・・・ピンチョスは一寸高めですが、味は申し分なし)

    

  

(チャコリで乾杯!)

 次は・・・そうだ、ラ・ヴィーニャでもう一度チーズケーキを食べよう!と訪れると、まだ720と開店20分後なのに「ソールド・アウトだよ」と無常な返事。昼間の大賑わいで売り切れてしまったのでしょうか?確かにカウンター隅には1個もありませんでした。

 諦めて、ラ・クチャーラへ向かいます。通りから奥へ入った分かりにくい場所にあります。7時半開店で、少し前に着いたのですが、店の前には既に20人強が列をなしています。当店はピンチョスではなく、タパス(=小皿料理)だということで、テーブル席があるかと思っていたのですが、スタンドのみの小さな店、それで開店と同時に行列客がどっとなだれ込んで忽ち満席です。そこへ後から後からと客が入って来ます。いやぁ、人気の店なんですね。

 カウンターでオーダーと名前を告げ、待つことしばらく、やがて名前が呼ばれて料理を渡されます。

  

(開店を待つ客の列) (チャコリを注ぐ)

 注文したのは此処の名物2品。先ずはプルポ=タコの足のソテー。吸盤のある先っぽかと思ったら、中ほどの部位です。至ってシンプルな、素材そのものという料理ですが、柔らかくて美味しいのにビックリ。

続いてフォアグラのソテー。表面が焦げていて見た目はグロテスクですが、ノープロブレム。とろりとしたハチミツのソースがかかっていて、フォアグラの塩気とハチミツの甘さが絶妙のマッチングです。今夜だけはコレステロールのことを忘れて堪能。(タコ€12、フォアグラハーフ€10、チャコリ€2×2=€26)・・・他にもオーダーしたかったのですが、とにかく大混雑で落ち着いて味わう状況ではないので、名物2品で終了。

 

 (タコ€12、フォアグラハーフ€10、チャコリ€2×2=€26)・・・他にも注文したかったのですが、とにかく大混雑で落ち着いて味わう状況ではないので、名物2品で終了。

 店を出て、通りを戻っていると、次の横町から歌声が聞こえてきました。イタリアン・テノールのような素晴らしい美声です。皆さん、大いに楽しんでいますね!

      

 さぁ、道を戻って、昼間教えてもらったバス停へ。34分待つと19番バスが到着。運転手に「MUNTO」と大きく書いた紙を見せると「SI=シー」。前の表示パネルを見てもどれが次のバス・ストップの表示なのかよくわかりません。 さぁ、この後、大事件勃発です!

(次第に空いてきたバスの中)

  Mさんが9つ目がムントです」と言っていましたが、9つ目はまだ平地を走っています。しばらく走って高台に上がってきました。気が付くと乗っているのは我々二人だけです。ドライバーに「ムント、ムント」と叫ぶと、さらに少し走って「此処がムントだよ」と言うので、そこで下車。Mさんの教え=「降りて進行方向へ進んで最初の角を右に曲がって、次を左に曲がると、ホテルが見えてきます」=に従って、進みますが、行けども行けども右に曲がる道はありません。

 そのうち次のバス停に到着。“これはマズイ!”と引き返すと、犬と散歩中の老人に出会いました。地面を指さして「MUNTO?」、(老人)「Si!」・・・ここがムントであることは間違いないようです。()HOTEL?」、(老人)「PARASIO?」、私「Si!」・・・この老人ホテル・パラシオを知っているようです。(助かった!)

 スペイン語が分からない私と、日本語も英語もわからない老人・・・此処からは身振り手振りのジェスチャアーを翻訳します。

(私) 「後ろの道を右※に曲がるのか・」 ※来た方からすれば「左」です。

(老人)「違うよ。まっすぐ行って、左に下るといいんだ!」

 私は右への曲がり道しかないと思っていたんですが、ホテルの名前も知っている地元民の言うことを信じて、来た道を戻ると、左に下る道があったので、“なんか違うなぁ?”と思いつつ進むと、階段があって向こうに大きなマンションのような建物が何棟かありました。あそこで誰かいれば訪ねてみようと敷地に入っていくと、空き地で犬を連れた紳士(風)が休憩していました。

(私)「すいません、ホテル・パラシオを知りませんか?」  (英語です)

(おじさん)「君は英語がわかるか?。よし、階段を上がって坂道を上り、道路に出たら渡りなさい。教会があるから、そこを左に曲がり込むように行くとホテルがあるよ!」 ・・・やっぱり先ほど私が思ったとおりの曲がり角でした。(正解は=バスを降りると少し戻って、左に曲がる・・・でした)

 〜〜こうして、見知らぬ土地の暗闇の中をさ迷うこと30分、あわや遭難しかけて、やっとの思いでホテルにたどり着いたのでありました。  

 翌日、今後のこともあるからと、Mさんに顛末を報告しました。Mさん「そうですか。今まで問題なかったんですがねぇ・・・カーニバルで運行ルートが変わったんでしょうか?。今後はバスは勧めないようにします。」と。

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