5日目(3月8日・日)
フィレンツェ・2日目
本日も晴れ、でも気温は低め。昨年は雨続きでしたが暖かいくらいの気温でしたから、気候は分からないものです。
このホテルの朝食は、“ネットの事前情報”通りの至ってシンプルなものでした。一日の活力源ですから、文句言わずに頂きますが、3日間これだと、やはりちょっとツライ・・・。
今日はミケランジェロ広場(とその上にある教会)へ行こうという予定。タバッキ(タバコ屋)でバス・チケット(€1.2×2枚)を購入してノヴェッラ駅そばのバス停に行くとグッドタイミングで12番バスが待っていました。運転手に念の為「ピアッツァ・ミケランジェロ?}と確認すると、彼は「ノー!」という返事。後から来たイタリア人らしき数人も確認していますが、やはりダメなようでバスを降りています。
そうこうするうちに13番バスが来たので、その運転手に尋ねると「ミケランジェロ広場なら前の12番だよ」とのこと。彼は12番の運転手に確認して英語で教えてくれます・・・なんでも、「昨夜、大風で大木が倒れて近くの道路が通行不能になっている。10時過ぎには開通する見込み」とのこと。(旅にハプニングは付き物ですが、親切な運転手がいてよかったぁ!・・・)
まだ1時間以上ありますが、部屋に戻るのもイヤなので、ドゥオーモの周りを散歩して時間を潰すことにしました。日曜日の朝9時前とあって人通りは少なく、ドゥオーモを独り占めの感じです。それにしても何度見ても見飽きない本当に美しい建物です。
(洗礼堂は工事中で残念!) (ドゥオーモ正面) (左手側面の入口)
(真後) (右側面) (ジョットの鐘楼)
(正面向かって左扉と、その上の部分)
(正面中央扉とその上の部分)
(正面向かって右扉とその上の絵画・・・受胎告知ですね)
10時近くになったので再びバス停に行くと、バスには既に大勢の人が乗っていて、ほどなく出発しました。椅子席にいた若い日本人カップルが席を譲ってくれました。極めて感じのいい二人ですが、卒業旅行だそうで、いまどきの若者はこういうのが当たり前なんでしょうか?
15分ほどでミケランジェロ広場に到着。天気もよく、此処からの眺めは素晴らしい。
この広場にもダビデ像(ブロンズ)があります。
坂道を上って、教会へ。まずは木立の中にひっそりと佇むといった趣きの「サン・サルヴァトーレ・アル・モンテ教会」。
「地球の歩き方」では、「・・・ミケランジェロが“美しい田舎娘”と呼んだ」と書いてあります。堂内に入ると、なるほど清冽といった感じで、栄光と苦悩の中に生きたミケランジェロも本当はこういった感じが好みだったのかもしれません。
さて、さらに丘を上がると見えてきたのは「サン・ミニアート・アル・モンテ教会」。ミサに行くのでしょうか、大勢の人が登る階段の上にロマネスク様式の優雅なファサード(=正面デザイン)が現れます。11〜13世紀にかけて建造されたそうです。
(ファサードの窓の上の絵画)
中に入ると、13世紀そのままというか、小さな窓からの自然採光の他に照明は少なく、荘厳な感じです。
祭壇の上にまた祭壇があって、その上部のモザイク絵はビザンチン様式の影響が色濃いですね。天井は彩色された組み天井で、壁にはびっしりとロマネスク様式独特の文様が描かれています。
アーチに繋がる柱やフレスコ画が優雅です。天井の5つ(写真では3個)のメダル状の絵画は、ルカ・デッラ・ロッビア
壁のフレスコ画もなかなかの力作です。
祭壇の下奥にはクリプタと呼ばれる地下聖堂がありました。箱根寄木細工を大きくしたような紋様の柩(?)が印象的です。
堂内を歩き回っているうちに、荘厳な音樂とともにミサが始まったので、部外者は退散します。外に出ると、広場よりさらに高いところに位置する此処からの眺望もまた素晴らしい。みなさんものんびりと日向ぼっこです・・・。
さて、帰りです。ミケランジェロ広場まで戻ってバスを待つより、ここから下まで歩いて降りたほうが早いだろうと、ヘヤピンカーブの坂道をショートカットしながら下ると、20分ほどでアルノ川沿いのセッリッストーリ川岸通りまでたどり着きました。(歩いて降りて大正解です!
(グラツィエ橋) (その向こうがベッキオ橋)
グラツィエ橋を渡って、次なる目的は「サンタ・クローチェ教会」ですが、お昼を回ったので、その前に昼食です。教会の周りには結構有名な食事処があるのですが、残念なことに日曜日は殆どがクローズです。それで開いている店を求め、ウッフィツイ美術館を抜けてシニョリーア広場まで戻ります。
ヴェッキオ宮前で、「ダビデ像」のコピーとご対面・・・これでフィレンツェの3個のダビデ像を拝観したことになります。広場の中央にはめ込まれた円盤は「此処でサヴォナローラが火刑に処された」場所と説明してあります。
で、お昼はヴェッキオ宮の隣のゴンディ宮から少し入ったところにある「イル・マンダリーノ」=漢宮飯店・・・そうタマには中華でも・・・という趣向。中に入ると中級中華料理店といった小奇麗な感じで好印象です。
お昼は”軽く”ということで、ビールの肴は春巻きと餃子。メインは”海鮮あんかけ炒飯”・・・この炒飯は大ぶりの海老、ヤリイカなどがゴロゴロ入っており、例えば日本の南国酒家あたりと比べても遜色ないくらい美味しい。ボリュームもたっぷりで€8.5だから、大お値打ちの一品でした。
満足したところで、アングゥイッラーラ通りを抜けてサンタ・クローチェ広場へ出ます。日曜の昼下がり、暖かな日差しを浴びながら皆さんくつろいでいます。その間を忙しく動いているのはアフリカ系の物売り達。去年は雨模様だったのでどこへ行っても傘を売っていましたが、今回は至るところでなんと「自撮棒」、そして此処では「絵画」。誰も見向きもしないのに、これで稼ぎを得ることができるんだろうか?
蓋付き鍋のようなものを叩いて音楽を奏でているパフォーマーがいました。私はこういう打楽器(?)(=例えばスチールドラムとか)が好きなので思わず聞き耳をたてました。フィレンツェのストリート・ミュージシャンはなかなかの腕前です。
「サンタ・クローチェ教会」は、フランシスコ会を創設したアッシジの修道士・聖フランチェスコによって創設されたというが、現在の基本は13世紀末から建設が始められ100年弱をかけて14世紀末(1384頃)に完成したようです。白亜の大理石のファサードは装飾が少なく清冽な印象ですが、これは「清貧」を旨とした聖フランチェスコの精神を表したものという。
尤も1966年アルノ川の大氾濫で建物の内外とも大被害を受け汚染にまみれたのを、その後数十年かけて丁寧な修復作業を行った結果、今日我々はこの美しいフォルムを愛でることが出来るということです。
堂内にはミケランジェロ、ガリレオなど偉大なフィレンツェ人の墓碑・記念碑があることで有名です。
ファサード左脇の大きな像はダンテ。彼はフィレンツェで生まれ育ち、長じて市政にも参画。やがて最高執政機関の3人の頭領の一人にもなったが、政争のあおりで実権を握った反対派から追放され、北イタリア各地を流浪。復権を画策したが叶わず、2度と故郷フィレンツェに戻ることはなかったという。「神曲」はこの各地流浪の後、落ち着いた先のラヴェンナで書かれたもの。今フィレンツェの中心部に安息の場所を得たダンテの像は何思う?・・・。
正面向かって左の側面から中へ入ります(€6×2)。相当に広い堂内はかなり薄暗く上の方はよく見えません。中央礼拝堂へ近づきます。まさに絢爛豪華です。
(中央祭壇) (天井) (身廊の後方)
(主祭壇とキリスト像の十字架)
聖堂内はちょっと複雑な(?)構造になっています。中央礼拝堂の左右から両脇にかけて計16ほどの礼拝堂があります。当時の貴族・有力者のファミリーの為の礼拝堂です。それぞれの「半個室」の両壁もフレスコ画でいっぱいです。その多くはジョットとその弟子たちの手によると言われています。
↓左は中央祭壇の右のバルディ家礼拝堂に描かれたジョットの「聖フランシスコの死」で、堂内フレスコ画で一番有名なものであるが、残念なことにかなり傷んでいます。(因みにバルディ家は銀行&貿易業で栄えたが、イングランド王エドワード3世(=「百年戦争」を始めた)への戦争融資が起因となって14世紀半ばに破産している)
(聖フランシスコの死の場面)
聖具室・・・(アンドレア・デラ・ロッビアの「聖母子と天使像」) (フレスコ画=イエスの磔刑・昇天・復活)
バロンチェッリ礼拝堂・・・フレスコ画はタッデオ・ガッティの「マリアの生涯」(ガッティは24年もジョットの弟子を務めたと)
カステッラーニ礼拝堂・・・薄暗い部屋はコインを投入すると、しばらく灯が灯ります。誰かが点灯してくれました。グラッチェ!
(ジョルジョ・ヴァザーリ) (フランセスコ・サルヴィアテ) (アーニョロ・ブロンズィーノ)
さぁ、礼拝堂から後ろへ下がった身廊の周りには、フィレンツェを代表する人物の墓碑があります。この中でダンテだけは「墓碑」ではなくて「記念碑」です。彼の遺骸は逝去の地・ラヴェンナにあり、フィレンツェが返還(?)を求めても絶対に返還しないそうです。
ロッシーニ マキアヴェリ ダンテ
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墓碑の間で、キラリと光るのがドナテッロの彫刻「受胎告知」
床も墓碑がいっぱいです。柵で囲ってあるのもあれば、そのままで踏みつけられるままになっているのもあります。
聖堂から回廊に出ると、隣の棟続きはバッツイ家の礼拝堂がありますが、ウッカリ入りそこねました。(残念!) 因みにバッツィ家は金融業で栄えた古くからの名家で、新興で勢力を伸ばしてきた同じ金融業のメディチ家と激しく対立。メディチ家最盛期の当主ロレンツォ豪華王(=イル・マニフィーコ)を暗殺しようとして失敗し(但し弟のジュリアーノ・ディ・メディチは殺害)、フィレンツェから追放されたという。
(左=聖堂、中=バッツィ礼拝堂、右=美術館) (バッツィ礼拝堂) (鐘楼)
〜〜いやぁ、見所いっぱいの見物が終わりました。
馬車が通る道を抜けてシニョリーア広場界隈へ。
(ランツィのロッジア) (ヴェッキオ宮殿)
(ヴェッキオ宮の中庭中央には、ヴェロッキオの「イルカを抱くキューピット」)
(新市場のロッジアの、「イノシシ」にご挨拶)
まだ時間があるので、横丁を抜けてサンタ・トリニタ橋を渡ると、その袂にジェラートの「サンタ・トリニータ」がありました。人気店とあって夕刻でも長い行列が出来ています。やっぱり食べなくちゃぁ!・・・並んだ甲斐あってやっぱり美味しかったです。通りの反対側を見ると、又々面白い水飲み場がありました。何やら「スターウオーズ」に登場する銀河帝国の兵士・トルーパーに似ていると思うのは私だけでしょうか?
(スターウオーズのトルーパー)
橋を戻ると、小さな広場がありました。サンタ・トリニタ広場です。中央に円塔があって天辺には女神の像があります。「正義の女神」といって、1537年にコジモ1世がストロッツィ家をはじめとする反メディチ勢力を倒した「モンテムルロの戦い」の勝利を記念するものだそうです。
プラダやフェンディのブランド店が並ぶトルナブオーニ通りを進むと、右手に立派な建物があります。ルネッサンス・フィレンツェのパラッツォ建築の代表とされるストロッツィ宮です。「宮」と言っても、1489年に大銀行家であったフィリッポ・ストロッツィが建てたもの。・・・メディチ家のライバルであったストロッツィ家は1434年にフィレンツェから追放されますが、フィリッポ・ストロッツィはナポリで銀行家として成功し、1466年にフィレンツェに復帰。ロレンツォ豪華王率いるメディチ家の対抗心に燃える彼はフィレンツェで最も大きい宮殿の建設に着手したものの2年後に逝去。建物の完成はそれから47年後となりましたが、1907年にストロッツィ家が途絶えるまで同家で所有し続けたそうです。
中に入ると吹き抜けになっていて、この中庭は現在ショーや展示会に使用されているとのこと。
(トルナブオーニ通り) (ストロッツィ宮) (中庭の空間)
さらにその先に教会があったので、ちょっと入ってみました。バロック様式の「サンティ・ミケーレ・エ・ガエターノ教会」といって、17世紀に聖人ミケーレとガエターノのために建てられたそうです。夕暮れどきとあって堂内は薄暗くよく見えなかったですが、なかなか重厚な造りです。
いやぁ、よく歩きました。部屋に戻ると、もう外へ出るのも億劫なくらいですが、食事を摂らなくてはいけません。日曜日は多くのレストランは休業で、近くで開いている店といえば・・・「チェントポーベリ」。昨年も来ており、妻は「此処は好きくない」と言いますが・・・。
(ミックス・クロスティーニ) (仔牛スネ肉の煮込み) (スパゲティ・ボンゴレ)
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