再びのエジプト
ナイル川クルーズ
(2012・5・23〜5・30)
はじめに(1)
妻が「元気なうちにエジプトへ行きたい!」と叫んでいます。2年前の地中海クルーズで、突風によりアレクサンドリア寄港がパーになり、楽しみにしていたピラミッドやツタンカーメンの黄金のマスク見物が幻と化してしまいました。
そのうちにと思っていたら、チュニジアのジャスミン革命がアッという間にアラブ世界に広がり、エジプトでも鉄壁と思われていたムバラク長期政権が崩壊し、社会不安が広がりました。各旅行会社もパックツアーを中止し、エジプト旅行そのものが幻状態となり、そうすると余計“行ってみたい!”という強い思いにかられるわけです。
今年に入って春先にHISがツアーを発表。“クフ王のピラミッドへ貸切入場!、デラックスホテルのメナハウス・オベロイ(エジプト好きには憧れのホテルです)に宿泊!”という殺し文句に、「これにするかっ!」と思いましたが、続いてトラピックスから「ナイル川クルーズ3泊4日付き、ゆったりエジプト8日間」というのが発表になりました。既に高齢者となった身を考えれば、なるべく楽なほうがいい!というわけで、受付初日に5月23日出発を申し込みました。(本当は4月にしたかったのですが、オランダから帰国後少し休養してからのほうがいいという判断)
早速送られてきた書類の中には「外務省の注意喚起地区※であることを承知で渡航する承諾書」なんてのが入っており、緊張感がいや増したのであります。(※危険度カテゴリー4段階のレベル1) ・・・あとで知ったことですが、24日に大統領選挙があり、再び国内に緊張感が高まりつつある・・・ということでした。
「最小催行人数25名」とあり、この時期に敢えてエジプトに出掛ける物好きがそんなにいるのかな?と心配になり、1週間後に電話したら「その日は満席で予約受付終了しました」とのこと。 いやはや我が家と同じような“物好き”が、世間には結構いるんですねぇ・・・。
(尚以下において、現在、ピラミッド、アブシンベル神殿、ツタンカーメンの墓、および考古学博物館の内部は撮影禁止となっているため、本旅行記の当該エリアの記述では、購入した写真や絵ハガキ、ウイキペディア、及び11年前の体験写真などから画像を挿入しました。)
はじめに(2)
エジプト旅行の面白さは「歴史との対峙」にあります。今から5000年以上の昔、世界は大河の畔に文明の黎明期を迎えました。チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河、そしてナイル。現在、その文明の証の殆どそのままの姿を自然の中で目の当たりにすることが出来るのはナイル=エジプトだけです。
古代エジプト人は文明の最初から文字を持ち、それが天才シャンポリオンによって解読されたことによって、遺跡とともに、詳しい歴史の内容を手に取るように理解することが出来ます。
で、エジプト旅行の面白さを深めるにはその長〜い歴史を知ることが肝要です。出発前にザッとおさらいをしておきましょう。
≪エジプト王朝略史≫
その長い歴史は王朝の変遷から見ると、10に区分されます。(年次は全て紀元前BC)
@ 黎明期 BC3300〜3000頃
A 初期王朝 3000頃〜2686頃・・・1〜2王朝
B 古王国 2686頃〜2184・・・3〜6王朝
C 第1中間期 2184〜2125・・・7〜10王朝
D 中王国 2125〜1795・・・11〜12王朝
E 第2中間期 1795〜1550・・・13〜17王朝
F 新王国 1550〜1069・・・18〜20王朝
G 第3中間期 1069〜720・・・・21〜24王朝
H 末期王朝 752〜338・・・・25〜31王朝
I プトレマイオス朝 305〜BC30・・・32王朝
各時代の特徴はと言えば・・・
B古王国
ジェセル王(2667〜2648)、スネフェル王(2613〜2589)、クフ王(2589〜2566)、カフラー王(2558〜2532)、メンカウラー
王(2532〜2503)と、巨大ピラミッドが造られた時代。あのような壮大な建築物が造営されたということは、強力な権力と
富の
何よりも驚
C第1中間期
古王国に引き続き都をメンフィスに置いたものの、中央政権は瓦解したに等しく、混乱の時代が続いた。
D中王国
テーベを本拠とするメンチュヘテプ2世がヘラクレオポリスを都とした第10王朝を倒して国を再統一し、テーベの重要性が飛躍的に高まる。官僚組織の確立と中央集権化が進展し、国は繁栄へと向かい、様々な文化芸術が花開いた。
E第二中間期
エジプトは大波乱の時代で、西アジアに起こった民族大移動により、謎の民族ヒクソスが1730頃に侵入。ナイルデルタのアヴァリスを拠点として、圧倒的な軍事力によって下エジプトを支配し、エジプト人は苦難の時代を迎えた。エジプト王朝はテーベを中心に細々と生き延び、1550イフアメスがついにヒクソスを打倒し、上・下エジプトを再統一した。
F新王国
古代エジプトの黄金期を実現。遺跡見物で登場する著名なファラオは皆この時代のリーダーたちである。(カッコ内は在位)
18王朝・・・Bトトメス1世(1504〜1492)、Cトトメス2世(1492〜1479)、Dトトメス3世(1479〜1425)、Dハトシェプスト女王(1473〜1458)、Eアメンヘテプ2世(1427〜1400)、Fトトメス4世、Gアメンへテプ3世(1392〜1352)
19王朝・・・@ラムセス1世(1295〜1294)、Aセティ1世(1294〜1279)Bラムセス2世(1279〜1213)、メルヘンブタハ、
偉大なるラムセス2世の時代は黄金期中の黄金期であるが、その治世が長すぎた為、後継者が王位に就
20王朝・・・@セクナクト、Aラムセス3世(1184〜1153)、Bラムセス4世(1153〜1147)、Gラムセス9世(1126〜1108)
19王朝のラムセスとは縁もゆかりもない「ラムセス王朝」は3世と9世が比較的長く権力を掌握したが、そ
G第3中間期
タニス(ナイルデルタ北東部)に都を置く下ナイル政権と、テーベの大司祭が支配する上ナイル政権が拮抗並立した
H末期王朝
25王朝・・・@ピイ(752〜721)からDタヌトアメン(664〜656)まで約100年が“黒いファラオ”=ヌビア人の王朝。ヌビア人たちは華麗なエジプトに憧れ、ついに被支配者から支配者となったが、しかし彼らもやがて侵攻してきたアッシリアに敗れ、再びヌビアの地へと戻っていった。
26〜31王朝・・・エジプト人の王権が復活したが、アッシリアの傀儡政権→自立→新バビロニアとの抗争→ペルシャの支配下に入り属国となる・・・と中東の覇権争いの中で翻弄された時代。
Iプトレマイオス朝
338年にアレクサンダー大王がペルシャを破り、エジプトはペルシャの支配から解放され、大王の死後その腹心の部
1日目 5月23日(水) 出発・・・成田〜カイロ
フライトは21:20成田発のMS0965便。空港に集まったのはなんと39名。殆どが中高年、尤も欧州ツアーなら女性が優勢ですが、今回は“ワイルド”なエジプトとあってか、男性のほうが若干多いです。我々の他にも同じトラピックスで「格安、エジプト&トルコツアー15日間」というツアーが同じ便にて出発で、チェックイン・カウンターは大混雑です。
機内に乗り込むと満席です。座席は3−3−3で、我々は窓側2席。私の横は上記15日間ツアーの参加の女性。このツアーは格安の値段と内容で大人気のようで、彼女たちのように名古屋地区かもら大勢参加しているようです。
11年前はバンコク経由でカイロまで20時間かけていったものであるが、今はノンストップで12時間と、北周りでヨーロッパに行くのと変わらない。10年の歳月の流れを実感する次第である。
(機内の様子) (CAには日本人女性もいます)
夕食はチキン(=クリームソースパスタ)又はビーフ(=シチュウ風)・・・このほかに「フィッシュ」もあったようです。
軽食は「おにぎり(鮭)と、どら焼き」という珍妙なセットです。朝食のオムレツ&ソーセージはボリュームタップリで、これは美味しかったです。
尚、飲み物はソフトドリンクのみで、アルコールはノン・サービス。それで出国手続きのあと、売店でビールとワインを購入して機内へ持ち込みです。ビールが生ぬるくなってますが、まぁ我慢してグビグビ。
個別ビデオの映画には日本語版も結構ありますが、アバターやハリー・ポッターと少し古いプログラムが殆どなので、到着に備えて睡眠に注力し、まぁまぁ眠ることができました。
2日目 5月24日(木) カイロ〜ギザ(ピラミッド)⇒アスワンへ
午前4:40、ほぼ定刻で無事カイロ到着。空港内はいつ新築されたものか、ヨーロッパの空港と変わらないほどモダンでクリーンでした。トイレの前にガラペーヤを着たおじさんがチップを貰おうと待ち構えていることもありません。両替所に行くと「1USドル=6エジプト・ポンド」です。
後でわかったことですが、街中(=レストランや土産物屋)だと、1ドル=5ポンドと、旅行者にとって不利な交換レートになります。
(立派な水平エスカレーターもあります) (ロビーも奇麗です) (トイレも清潔でした)
早速バスに乗ってギザへと向かいます。この時期、カイロでの宿泊は厳禁なのです。現地ガイドのナセル君の他に「ツーリスト・ポリス」が同乗。安全確保の為で、警察官(といっても私服です)が同道しないと観光は出来ない決まりになっているようです。
空港から少し走ると、もう周りは砂漠の雰囲気で、妻は目をパチクリ。
6時過ぎにギザ郊外のホテル・「ピラミッド・パークリゾート」に到着。(名前にピラミッドが付いていますが、此処からピラミッドは見えません)
センターフロントの建物の背後に2階建のホテル棟が点在するリゾート感覚のホテルです。同じような造りの前回の「カタラクトリゾート」の悪夢が蘇りますが、ここはまぁまぁのホテルでした。此処で5時間強の休憩です。
(エントランス) (正面) (アラビア風の雰囲気のロビー)
(全戸2階建てです) (室内も洗面も広いことは広い!)
バスタブに浸かると、長旅の疲れが幾分か和らぎ、これは有難い!
(実は、この時間帯に、同じ飛行機でやってきた「エジプト&トルコツアー」の一行が空港から直行してクフ王のピラミッド見物に向かっており、クフ王のピラミッドには午前・午後の入場人数制限があるため、旅行会社は巧妙に振り分けをしているんです!)
ガーデンの中央には澄んだ水を湛えた大きなプールがあり、リゾートムード一杯で、此処がギザだということを
面白い木がありました。トックリ椰子のような形をした木の表面には角のような突起物があり、葉っぱの間には白い花のようなものが・・・「綿の木」ということでした。また、南洋桜のような赤い花が鮮やかでした。
レストランで朝食がいただけるというので、格段お腹が空いているわけでもないのですが、何事も経験ということで行ってみます。
入り口脇にあるヌビア人の像はツタンカーメンの墓にある「カーの像」のコピーです。レストランは広々としてます。
料理は結構ありますが、「生もの」を排除すると、そんなにありません。パンはどれも美味しかったです。一行の中には早速生野菜をぱくついている豪傑もいました。(因みにこの夫婦は道中何を食べてもお腹に悪影響はなく、感心しました)
11:30にホテルを出て、先ずは昼食。(あれっ、つい今しがた朝食を食べたばっかりなんだけど・・・そういえば、添乗員のN君は「直ぐに昼食ですから、朝食は無理して食べなくてもけっこうです」と言ってたっけなぁ・・・)
ピラミッドが見えるレストランです!先ずは「ステラビール」で喉を潤します。
前菜的に出てくるのは、「アエーシ」・・・見た目はインドの「ナン」に似た地元のパン。粉を練って竈の中に張り付けて焼いただけの簡単な調理ですが、これに「タヒーナ」=練り胡麻・ヨーグルト・ニンニクを混ぜ合わせたペースト状のソースを付けて食べると、結構イケルのです。尤も他の刻んだ野菜類は敬遠です。
メインは「ミックス・シーフード・グリル」・・・白身魚(スズキ?)、イカ、エビで、変な油をかけてなく、結構新鮮で美味しかったです(この後も含め、私的にはベストでした)。デザートは不揃いなオレンジたちで、見た目と違って結構甘かったです。
腹ごしらえが終わると、いよいよのっけからのハイライト!・・・ギザのピラミッド見物です。
「わぁ〜〜デカイ!」・・・クフ王のピラミッドを目の当たりにして、妻は歓声を上げます。実は11年前の私もそうでした。
これがなんでスゴイかというと、(皆様も御承知のように) 古代エジプトの長い歴史の中でも、その最初も最初のほう=古王国時代の紀元前2540〜2520年頃にこの偉大なモニュメントが建造されたということなんです。(私の友人の聡明なT氏は「今から4500年以上も昔に人類があんなものが作れるハズがない。宇宙人がやってきて造り上げたんだ」と信じて疑いません。)
(クフ王のピラミッド) (中央の泥棒が開けた穴が入り口)
午前・午後各150人限定というクフ王のピラミッドの中へ入ります。 この入り口は9世紀に墓泥棒によって開けられた盗掘穴だそうです。外も暑いが、中は湿度が加わってもっと蒸し暑い。
低い岩壁の隧道を這うようにして進むと大回廊。そこを上りきると横穴(?)があり、這うようにして進みます。なんともやっかいですが、横穴を造ったのは、「神官たちが玄室に入る際、ファラオに深く頭(こうべ)を垂れるように・・・という意図なんです。」とは、ナセル君の解説ですが、本当かな?
やがて広い空間に出ると、そこは玄室(?)。奥に花崗岩でできた石棺が安置されています。王のミイラが安置されていたのが盗掘された跡・・・といったふうにも見えますが、では棺の蓋はどうしたのか?又周囲の壁に何の装飾も無いのはどうしてか?・・・といった疑問だらけで、吉村先生によると、此処はダミーで、本当の玄室は他(=この部屋の上?)にあるということですが、折角来たのですから、此処は玄室と思うことにしましょう。
(大回廊)
(これは11年前の大回廊・横穴・石棺・玄室の壁・・・の記録です)
玄室という割には、廻りの壁になんの装飾も無く殺風景です。石棺はありますが、蓋はどうしたのでしょう。まさか墓泥棒が蓋だけ盗んでいったとは考えられません。吉村先生の最新(2012年7月)の説によると・・・此の石棺はクフ王の魂とラー神が天空の旅から帰ってきて、休憩しパワーを充填して、また天空へと飛び立つ「休憩所」だということです。だとすると、我々もここで瞑想すると、パワーをもらえるかもしれません。いわゆる”ピラミッド・パワー”ということなんですね、吉村先生!
見物を終えて外に出ると、土産物売りが殺到します。観光客相手で生計を立てている人達ですが、今は観光客が激減しているので、必死なんでしょう。
ピラミッドの反対側に目を転じると。ギザの町が広がっています。
バスに乗って3つのピラミッドが見える丘に移動します。
写真を撮っていると、傍らにあった警備小屋から警官2人組が手招きします。“ピラミッドのほうを向いてポーズをとれ”というジェスチャーなので、謂われるままにカメラを渡してポーズをとると、上のような写真になっていました。当然というか「チップを頂戴!」と言っているようですが、聞こえぬふりしてその場を離れます。
再びバスに乗って、メンカウラー王〜カフラー王のピラミッドを廻って撮影タイム。
(一番小さいメンカウラー王のピラミッド) (頂に花崗岩の化粧石が残るカフラー王のピラミッド)
(3大ピラミッドのそろい踏み、手前の小さいのはクフ王の母と妃のピラミッド)
テントのような建物の中は、1954年に発掘されたクフ王の太陽の船です。今回は見物予定に入っていませんが、絵ハガキによるとこんな立派な船だそうです。左の小さなテントは吉村発掘隊が最近発見した「第二の太陽の船」です。
第一の船は全長42.32mもあるそうで、ではこれらの船は何のために造られたかというと、クフ王が死んだ際、メンフィスからギザまで王の防腐処置を施した死体を運ぶために使用されたか、クフ王自身が巡礼地を訪問するのに「巡礼の旅船」として使用されたのではないかとされている。
しかし、吉村先生の説によると、へさきが西(写真だと左)を向いており、船を結ぶロープも発見されたことから、第二の船がラー神の乗る船で、ロープで第一クフ王の船と結び、ラー神とクフ王の魂を乗せた2隻の船が連なって天空を飛んで来世へと向かい、又戻ってくる・・・そのために造ってピラミッドの直ぐ傍に埋葬したと言うことなんです。
次は河岸神殿。ピラミッド建築中は資材を陸揚げしていた場所にファラオのミイラを作成するためもあってこの神殿が造営されたそうです。4500年前の造作とは思えないほど、真四角にズバッと切られた花崗岩の柱は1本で200トンもあるそうです。
続いてスフィンクスです。
全長73.5m、高さ20m、幅5m・・・石灰岩の丘を彫り込んだもので、一枚岩から彫り出した像としては世界最大のもの。カフラー王の命により、そのピラミッドと同時代に造られたとされる。何度見ても(といってもこれで2度目ですが)素晴らしい。妻も「やっぱりエジプトに来てよかったわ!」と大喜びです。
(ピラミッドとスフィンクス)
大興奮のピラミッド&スフィンクス見物を終えると、トラピックス恒例のショッピング案内=1回目は「パピルスの店」。
写真・↑左は「死者の書」=死者とともに埋葬されたパピルスの絵巻物で、死者の霊魂が肉体を離れてから死後の楽園アアルに入るまでの過程を描いたもの。写真中央が本物の一例です。
写真・↑左は古代の暦だそうです。
これで本日の日程は終了ですが、まだ時間があるので、カイロ市内に戻って見物です。途中の光景も珍しい=レンガを積んだ建物はどれも途中で放り投げたような感じですが、よく見ると。ちゃんと人が住んでいるのです。お金が出来たら少しずつ建て増したり内装をしたりするそうです。
カイロ市内に入って見物するのは、モハメド・アリ・モスク。中へ入ると思ったら、入り口で写真撮影するだけでガッカリ。
11年前はちゃんと中まで入ったんですけどぉ・・(↓写真・下) 因みにモハメド・アリ(=ムハンマド・アリー)はテッサロニキに生まれたアルバニア系の血筋であるが、オスマントルコ軍隊の中で頭角を現してエジプト総督となるや次第に勢力を強め、やがてエジプトをトルコから独立させ「近代エジプトの父」と呼ばれた人物。
(11年前のモハメド・アリ・モスク)
次はスルタン・ハッサン・モスクです。
でかい建物なので、至近距離だと全貌がとらえられません。少し歩くと先ほどのモハメドアリ・モスクがよく見えました。
これで見物を終了して、ギザ駅に向かいます。寝台特急1等車に乗ってアスワンまでひた走るというのです。
(添乗員)「20:15出発ということでしたが、今日は大統領選挙の日でいろいろと混乱があるようで、少し遅れるそうです。暫くバスの中でお待ち下さい」・・・というわけでバス内で待機。7時になるとバスが帰るというので、ゴロゴロとスーツケースを引っ張って駅構内へ移動します。
(駅・・・見かけは立派です) (プラットホーム)
エジプトの鉄道の時間は全くアテにならないといいますが、8時半を過ぎても9時を過ぎてもお目当ての寝台特急はやってきません。9:40を過ぎてようやく到着です。
(私)「1等車といいますが、室内はきれいなんですか?空調はどうですか?」
(添乗員)「列車によってマチマチで、乗ってみないと分かりません。寒いか,暑いか、ちょうどよいかの何れかです。車内は狭いですが、ちゃんとベッドがある・毛布もある・チョロチョロですが、温水が出る洗面台がある・食事が出る・・・ということで有難いと思って下さい!・・・」
(夫婦)「はぁ〜ぁ〜〜」
で、中の様子はこんな具合です。
廊下は写真で見ると、一見豪華な感じです。室内は超狭く、スーツケース2個を入れると足の置き場に苦労します。でも
洗面台(確かに蛇口をひねると、暖かい水!がチョロチョロ出てきます。)の扉を開けると、物置の上にはタオルが2枚とゆきとどいており、この空間でこれだけを詰め込んだ設計者に敬礼デス。
ほどなく食事が出てきます。噂には聞いていましたが、それ以上!(いや、以下というべきか!)一口食べてみて、??
(鶏カラアゲ・ポテト炒め・豆煮・ライス・パン・オレンジ)
紙パックの赤ワイン(つまみはおかき)で喉を潤した後、取りい出しまするは、「カップラーメン」&「キツネどん兵衛」。でもお湯はどうする?。ここで先年この列車に乗ったT夫妻(恐怖のクルーズのお仲間)に聞いた秘訣に従い、パーサーにお願いします。
彼が隣の車両のコーナーの扉を開くと簡単な厨房があって、コンロの上のやかんが湯気を立てています。アツアツのお湯を注いでもらって待つこと4分。二人して“いただきま〜す!”最初妻は「そんな、列車内のお湯なんてぇ・・・ミネラルウオーターを沸かしたのじゃなきゃイヤよ」と言ってましたが、湯気の立つカップを見ると〜〜〜完食です。
食事が終わるや否やパーサーが現れて、ベッドメイキング。手慣れたもんで、アッという間に、ソファーが2段ベッドに早変わりです。
持参の大判ウエットタオルで顔や体を拭いて、ミネラルウオーターで歯を磨くとベッドへ。当然セミシングル=超狭いのですが、片方が壁ですからちょっと安心です。この列車がアタリだったのは空調が程良い具合だったことです。明りを消して横になると、走る騒音が良く聞こえ、ゴロゴロとよく揺れます=震度1〜3弱の揺れにずっと身を任せているといった按配ですが、これらがちょうど子守唄とゆりかごみたいなもんで、思ったよりよく眠れました。途中列車が停車して揺れが無くなるとかえって目が覚めたくらいです。
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