三日目(8/18)

 目覚めて一番にカーテンを開くと、うれしいことに快晴です! 食事前に散歩に出かけます。ひんやりとして澄んだ空気が気持ちいいです。このホテルは立地もいいようで、徒歩10分くらいで十和田湖の畔に出ました。青い空、澄みきった湖面・・・なんとも爽やかで、暫く散策したいのですが、そうもいきません。昨夜添乗員が「かなりの団体客が入ってますから、朝食は早めに行ったほうがいいでしょう」というアドバイスがあったからです。

            

                                                                                                 (ホテル正面)     →(こんな道を通って)  →(十和田湖です!)

  で、ホテルへ戻るとブッフェ会場へ直行。開始時間前ですが、既に20人ほどが行列を作ってます。朝食ブッフェとしては一通りのものが並んでおり、その中で“湯豆腐”が美味しかったのが印象的。

   今朝も8時には出発して、先ずはE十和田湖畔の「乙女の像」へ。清らかな湖によくマッチしてますが、ただ「乙女」のフォルムは、これが19歳の乙女と言われると、ちょっとねぇ・・・であります。(病弱だった)智恵子さんのイメージともかなり違っていますが、高村光太郎先生、どうなんでしょうか?

             

   湖畔を離れ 木立の中を進むと十和田神社があります。日本武尊と湖の主・南祖坊を祀ってあるそうです。森の中のひっそりとした佇まいは、何やら霊気が漂っているような・・・丁重にお参りしておきました。

             

湖を眺めながら集合場所へ戻ります。どこから見ても値千金です。

      

 バスに乗ると、次はF奥入瀬渓流木立の中を縫うようにして、渓流を左に右に又左にと見ながら、バスはゆっくりと進んでいきます。(添乗員)「お配りしたマップには滝が沢山書いてありますが、今は葉っぱが生い茂ってほとんど見ることはできません。きれいに見るなら、紅葉の季節に又お越しください」というわけで、「あれが千両岩と五両の滝・・・こちらが銚子大滝・・・次に姉妹の滝〜〜」と説明されても、チラリと見えるか、殆ど見分けることはできません。トップシーズンではありませんが、車は後に続いていますからスローダウンして見るわけにいかず、渓流の中で随一のスポットという「阿修羅の流れ」などもあっと言う間に通り過ぎてしまいます。

 天気もいいし、木漏れ日を浴びながらゆっくりと散策すれば最高ですが、全行程を歩けばここだけで半日以上はかかってしまいますから、そうもいきません。馬門橋を過ぎたあたりから石ヶ戸まで40分あまりの散策となりました。“さわさわ”と流れる水の音を聞きながら、快適なウォーキングです。

      

        

                                                                            (石ケ戸)

“終点”の「石ケ戸」は、平らな一枚岩が木の幹に食い込むようにして架かっています。〜〜昔々、美人盗賊が岩の下に旅人を誘いこんで金品を強奪した〜〜という言い伝えが生まれるのも無ベなるかな!といった感じです。

再びバスに乗って渓流に別れを告げると、太平洋側へとひた走って青森県から岩手県に入り、三陸鉄道の陸中野田駅へ。12時前に到着しましたが、昼間の時間帯はほぼ1時間に1本。(添乗員)「我々の乗る列車は13:17です。今から弁当をお配りしますからみなさん適当な場所を見つけて昼食にしてください。もちろん列車の中で食べていただいてもけっこうですよ」

事前に彼女は「野田駅は小さな駅ですから、周りに食堂のようなものはありません・・・」と説明していましたが、“鄙には稀な“というか、けっこうモダンな駅で駅舎の隣には道の駅もあり、その2階には小さいながらも食堂がありました。

で、配られた弁当は、三陸名物「ホタテ弁当」・・・帆立は小さいながらも新鮮で味付けも上品。数年前から人間ドックの指示により「禁制品」にした為、久しぶりのイクラ(=昔は、秋口になると、自分で生筋子を捌いて自家製イクラをこしらえたもんですが・・・)もプリプリで美味しかったです。ただ量がちょっと少ないのが惜しい!

 駅舎のベンチで弁当を食べ終えると、プラットホームに出て、待合小屋の日影で電車を待ちます。雲ひとつない青空の下、久慈行きの電車が過ぎ、暫くすると反対側から宮古行きの列車がやってきました。

    

 陸中野田〜野田玉川〜堀内〜白井海岸〜普代と5駅、僅か26分のG「三陸鉄道・北リアス線の旅」です。海岸沿いを走って、海の眺めがウリとはいってもトンネルが多く、海の眺望はほんの少し。全員シャッターチャンスを逃すまいと、海側の窓越しに目をこらします。運転手も心得たもので、ビューポイントに近づくとスローダウンしてくれます。で、その眺めは

      

      

普代駅で下車し、待機していたバスに戻ると、次はH「北山崎」・・・陸中国立公園の北側にあって、断崖絶壁の景勝地ということです。地図で見ると普代から5kmもありませんが、山道をグルグルと回って1時間近くかかってやっと到着。展望台に立つと、なるほどの絶景です。

 

      

 「第二展望台」というのがあったので、会談300段ほどを上り下りしながら行ってみましたが、「第一」とそれほどの違いは無く、“骨折り損の〜〜”。息を切らして戻り、集合時間ギリギリに滑り込みセーフ。(妻は、土産物小屋で地元の漁師の家のおばあさんと交渉しながらコンブをまとめ買いしてました。)

          

 これで本日の予定は終了。バスに乗ると、455号線に入り、(都道府県としては)日本で2番目に広い岩手県を横断します。岩泉町から早坂高原、岩洞ダムがせき止めて出来た岩洞湖を過ぎて小本街道を通り、夕方のラッシュに入った盛岡市内を抜けます。夕焼けがきれいです。

      

                                            (岩手山?)

雫石町に入り、初日の田沢湖の道標も出てくるという、山間いの鶯宿(おうしゅく)温泉がゴール。なんでわざわざこんな辺鄙で小さな温泉町に来たかというと〜〜それは(1=温泉に泊るという趣旨、2=翌日のコース・・・高速に近い、3=何よりもコストの問題!)というのが私の推量であります。

 鶯宿温泉・・・開かれたのは天勝年間で今から約450年前。ウグイスが川床で傷を癒しているのを見た、加賀の国から来た「助」という木樵が発見したということで、「鶯宿」の名前が付き、庶民の湯治場として続いてきたという。

 で、我々が泊るのは、伝承にちなんだその名も由緒正しい「加賀助」という旅館。バスを降りると、此のあたりは本当に添乗員が言ってたとおり、数軒の旅館があるだけで他には何にもなく、温泉町の風情は致しません。(因みに「加賀助」の隣は既に廃業した木賃宿風の旅館)

「加賀助」は昨日までの宿とは違っていささかシャビーな構え。47人全員を収容する余裕は無く、一行のうち十数人はその向こうの「長栄館」へ。(此処が地元一番館のようで、そっちへ行った人はラッキー!)

      

 ま、文句を言っても仕方がありません。夕食まで時間があるので、早速ウグイスが傷を癒したという温泉へ。風呂場は建物の最上階=6階にあって、湯質は良さそうですが、当然露天ぶろはありません。

 夕食は広間にお膳がズラ〜ッと並べられて、まさに純和式の団体旅行これに極まれりといったところ。岩手名物ということですが、伸びきった盛岡冷麺とワンコそば(といってもひと椀のみですが)を一緒にならべられてもなぁ・・・でも後から出てきた鮎の塩焼きは炭火の遠火でじっくりと焼いたものか、表面は焦げ目がなく黄金色に輝き、ほこほことして、「天然もの?」と思わせるほど美味しかったです。これ一匹で「合格!」としましょう。

四日目(8/19)

 

 昨日はあんなに快晴できれいな夕焼けも見えたのに、今朝はなんと曇り空です。早く目が覚めたので、近くを散歩してみます。宿の前を流れる葛根田川に沿って歩くと温泉神社という小さな社がありました。(夫婦は、歩いたところに神社があれば必ずお参りして、家内安全、国家安康をお祈りします・・・企業繁栄はもう省略です。)

 更に流れに沿って急な坂道を奥へと進みます。数軒廃屋となった元・温泉旅館&ホテルが侘しさを誘います。もう少し進むと橋が架かっており、下の葛根田川の流れは激流に近く、なかなか迫力があって見ものです。やっぱり散歩はいいですね。

      

 食事を済ますと、8時には出発。東北自動車道を南下してI「中尊寺」へ。奥州藤原氏の栄華の跡は、子供のころから義経の波乱に富んだ悲痛な生涯と併せ、小説、映画、TV大河ドラマと幾度も読み視聴して、一度は訪れたいと思っていた憧れの場所であります。 折角ですから、ここで歴史の勉強・・・

 奥州藤原氏の苦難から興隆への歴史は、「前九年の役」から始まる・・・陸奥の国の豪族・安倍頼良(後の頼時)が貢租を拒む等朝廷へ反抗の振舞いを見せたため、国司藤原登任が懲罰に向かったものの敗退し、代わって源頼義が陸奥守に任ぜられて征伐に乗り出したが、安倍頼良は「今度の敵は手強し!」と見たか、“ヨリヨシ≠ノ通じる自分の名前を「頼時」に改めるなど只管和睦に努め、また朝廷の意向もあって一旦和平が成立した。

しかしこれでは新・陸奥守として遙々遠征してきた征伐隊としての立場が無い!と思ったか、頼義は策を巡らせ安倍側を対立へと追い込む。再び緊張が高まる中、頼義配下にあって安倍頼時の女婿である平永衡が敵の安倍側に通じているとして粛清される事態が発生。永衡と同じように頼時の娘を娶っていた藤原経清(俵藤太・藤原秀郷の子孫?)はこれを見て「自分の身も危うい!」と感じ、安倍側に走った。

 双方小競り合いの続く中で、安倍頼時が戦場で倒れ、二男の貞任が安倍家の後を継ぐ。1057年、今が好機と見た頼義は貞任軍に決戦を挑むが、兵力に劣り大敗を喫してしまう。(これが黄海=きみ=の戦い) 貞任は合戦に勝利したことで更に勢力を強め、奥六郡の徴税権も手中に収める。一方頼義は捲土重来と麾下の兵力の回復に努め、やがて、これまで中立を保っていた出羽・仙北(秋田)の豪族・清原氏を同盟軍に引き入れることに成功した。

 1062年、頼義と清原氏の連合軍は兵一万を率いて攻め込み、ついに安倍貞任軍を打ち破った。頼義にとって、寝返った上、散々自軍を苦しめた藤原経清は一番“にっくき敵”であったということか、経清に最も長く苦痛を味あわせようと、刃の錆びた刀で首筋を鋸引きして惨殺したという。

 かくて奥州に一大勢力を誇った安倍氏は滅びたが、これだけの時間と人員を投入した凄まじい闘いであったに拘わらず、貞任の弟・宗任が降伏すると、一命をとり止め、伊予の国へ配流という措置となった。朝廷は寛容だったのである。 

そしてここからが日本史の面白いところで・・・奥州藤原氏の本筋から少し脱線するが、この配流が千年の時を経て現代に影響を及ぼすのである。

〜〜安倍宗任はかなり優秀な男であったのであろう、配流の地で次第に人望を集め、勢力を張るようになった。そこで3年後には九州・筑前宗像に再び配流されてしまうが、ここでも大名・宗像氏を助け日宋貿易などに貢献したという。

 宗任の三男・季任は肥前・松浦氏の娘婿に入って松浦実任と名乗り、その系統は北部九州の水軍として勇名をはせた松浦党の一族となった。子孫・松浦高俊は源平合戦で平家側についた為、長門(山口)・油谷に流罪となり、高俊の娘等は源氏の迫害を逃れるため、安倍姓を名乗ることとした。〜〜時は流れて、安倍家は江戸時代には大庄屋をつとめ大津郡きっての名家として知られるようになる。その子孫が安倍晋太郎、そして元総理の安倍晋三というわけである。

 で、本題に戻ってというか、惨殺された藤原経清の妻は、何と、夫の敵である清原武則の長男・武貞の妻となる。彼女と処刑された経清との間には7歳になる息子の清衡がいた。彼女は最愛の息子と安倍の血筋を残そうと懸命の覚悟であったのかもしれない。(後の世の、平清盛と常盤御前と頼朝、義経のことを想起せずにはいられない)

 清原武貞には嫡男・真衡、養子とした清衡、そして後に清衡の母との間に生まれた家衡という3人の息子があったが、武貞の後を継いだ真衡の代になって、一族の間に権力争いが勃発、血で血を洗うような凄惨な闘いとなる。これが「後三年の役」である。

 〜〜真衡は、一族の長老吉彦秀武の無礼の振舞いを怒り、討伐の軍を起こしたが、秀武はかねて真衡と不仲の清衡、家衡を味方に引き入れて対抗。真衡は源頼義を継いで陸奥守となった源義家を味方と頼み、抗争が続いたが、その最中に真衡が急死してしまう。

そこで、仲裁者・源義家は清原氏の領土・奥六郡を清衡、家衡に三郡ずつ分け与えるが、この裁定を不服とした家衡は1086年の冬、清衡の館を急襲し清衡の妻子等一族を皆殺しにしてしまう。この時危うく難を逃れた清衡は義家の助けを得て反撃、一度は敗れたものの、翌年の12月についに家衡を破り、闘いに勝利する。

 前九年の役を源頼義の奥州入り(1051年)からとすれば、それからじつに36年の歳月を経て、奥六郡を舞台とする抗争は終わりをつげ、かつての支配者だった安倍氏も、その後を襲った清原氏も滅び、藤原経清の遺児・清衡が31歳にして新たな支配者となったのである。

清衡は善政を施し、奥州は繁栄を謳歌するようになるが、1094年には平泉に居を移し政治文化の中心都市としての建設を始め、14年後の1108年に中尊寺の建立に着手する。

その「建立供養願文」の「・・・一音のおよぶ所千界を限らず。抜苦与楽普く皆平等なり。官軍夷虜の死事、古来幾多なり。・・・精魂は皆他方の界に去り・・・鐘声の地を動かす毎に冤霊(エンレイ)をして浄刹に導かしめん」の文言に、苛酷にして壮絶な前半生を振り返り、大伽藍建立に込めた王者の願いが何よりも明らかであると言えよう。

さて現実に戻って、先ずはなんといっても金色堂(拝観料=宝物殿とセットで800円)。清衡が68歳となった1124年に建立したもので、平安時代の浄土思想を具現した、宇治平等院と双壁の我が国の至宝というべき建築である。

覆堂の中に入るとさらにガラスの部屋の中に完全防御されて存在する、光り輝く金色堂は一辺が5.5mほどの小型の仏堂。その神々しさは藤原氏を滅ぼした源頼朝も疎かには出来なかったようで、これを手厚く庇護し、1288年には、ときの将軍・惟泰親王の命令で仏堂をすっぽりと包む覆堂が建設されたという。

また中尊寺は、1337年の火災で、その殆どを焼失してしまい、金色堂だけが完全な姿で残った。当時の関係者が懸命の対応で金色堂を守り抜いたのであろう。

 あまりのきらびやかさに言葉は無く、しばし立ちつくして眺めるだけですが、国宝第1号に指定されたこの至宝も、戦後は荒れるにまかせ、ボロボロの状態だったそうで、1962年から68年にかけての大修理によって建築当初の豪華絢爛な姿を取り戻したという。(覆堂もこの時にコンクリート製のものが造られた。)金色堂は撮影厳禁で、我々が撮影できるのはその覆堂とアプローチのみ。 (下の内部の写真は主に日経新聞からお借りしました)

        

 更に進むと、室町時代のものと推定される旧覆堂(木造)がある。これは重要文化財だが、中に入って自由に見ることができる。

        

次に讃衡蔵(さんこうぞう)=宝物殿へ。中尊寺には藤原氏の栄華をつたえる3000点もの国宝。重要文化財があり、保存上の観点から、その殆どが此処に収蔵されているという。下左の3体の仏像や一本の木から彫りだされた先手観音立像をはじめ、素晴らしい展示品の数々に時間の経つのも忘れてしまいそうです。

写真中央の「紺紙金銀字交書一切教」(我々が見るのは複製)は、清衡が62歳のとき、宋から底本を取り寄せ8年の歳月をかけて総数5000巻にも及ぶ写経を行ったという。一切平等の浄土を願う清衡の熱烈な思いが窺われる教書だ。

その右は「金銀迦陵頻伽文華鬘」で、金色堂内の中央壇を装飾する仏具で、唐草模様の透かし彫りの精緻さは驚くばかりである。

      

                                      (阿弥陀如来像と薬師如来像2体)

 

 “持ち時間”は70分。なにしろ広い境内なので、あとは急ぎ足で回ります。帰りの「月見坂」は、結構傾斜があって転がるようにして集合場所へと辿り着きました。

      

                                                (釈迦堂の門?)     (鳥居もあります)   (弁慶堂の前の・・・)

      

                                             (本堂の山門)      (これが本堂です)    (歴史を偲ぶ杉木立)

  さて、いよいよ最後のスポットを目指して再び高速道を南下します。12時過ぎにK「松島」近くに着きました。

(添乗員)「遊覧船は13:00出航です」 ところが昼食の松島蒲鉾本舗・本店に入ったのが12:30。老舗のこだわりで(?)温かいものは温かくということか、料理が出揃っておりません。一同出されたものを慌ただしく掻きこんで、一息いれると桟橋へ。

     

さぁ、30分の松島湾クルーズです。昨日と違って曇天なので、芭蕉の心境「ああ松島や、松島や」には今一つ。 でも次々と目の前に現れる、小島や奇岩は眺めていて飽きません。

      

 船長は予定を10分ほどオーバーして丁寧に回ってくれました。遊覧を終えると次は桟橋の向かいの瑞巌寺へ。

 瑞巌寺の開山は鎌倉時代。〜〜平安時代から天台宗・延福寺がこの地にあったが、禅宗に傾倒した北条時頼の支援により禅僧・法身が天台宗勢力を放逐して住職の座につき、以降は現在の地所に移って臨済宗・延福寺となった。

鎌倉・建長寺の開祖・蘭渓隆道が2代住職となり、鎌倉将軍の支援を受け「関東御祈祷所」に指定され関東十刹の一つになるほど興隆したが、幕府滅亡以降は衰退の道を辿り、戦国時代には火災にも見舞われ、廃墟同然の状態となっていた。

江戸時代に入って伊達正宗が復興を思い立ち、1604年から5年の歳月をかけて大工事を完成させた。この時に寺名を「松島青龍山瑞巌延福寺」と改め、それからは伊達家の手厚い庇護のもと、再び隆盛を極め、今日に至っているという。正宗建立の本堂は桃山様式の豪壮なもので、国宝に指定されているが、2年前から期間10年をかけての「平成の大修理」に入っており、残念ながら拝観はできません。

 (改修前の本堂と、御成玄関=左部分)

それでも、観光客で賑わう表通りから一歩総門を潜ると、鬱蒼とした杉木立の中の参道は深々として荘厳な雰囲気に圧倒されます。さすが伊達正宗が精魂こめて復興しただけのことはあります。

      

総門を出ると、再び湾側に出て、橋を渡ると「五大堂」。伝承では坂上田村麻呂が奥州征伐の折に毘沙門堂を建てたのが始まりとされ、現在のお堂は正宗が瑞巌寺復興に先だって再建したもので、(あまりにもいい場所にあるために返って格調に欠ける感がしないでもないが) 国の重要文化財に指定されている。

      

 これにて全ての観光を終了。再び東北自動車道に乗ると、途中何度かのトイレ休憩を挟んで、ひたすら東京を目指します。埼玉に入ってもそれほどの渋滞は無く、8時半ごろには東京駅前へと帰ってまいりました。

いやぁ、走った走った!4日間で2、400km以上は走ったでしょう。天候はいま一つでしたが、見どころたっぷりで、夫婦にとっては全て初めての場所。満足のツアーでした。

(妻)「ネッ、国内もいいでしょう!」                       

 (完)

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