第3章・炎熱の古都トレド

 

 

 午後はマドリードからバスで1時間ほど走ってトレドへ。現在のトレドは近郊を含めて約65千人程度の規模の都市。しかしその歴史は古く、言わばスペインの奈良・京都といったところ。

 〜2世紀末にローマ帝国の支配下に入り都市としての基礎が築かれ、ローマの衰退後は6世紀に西ゴート帝国の首都となり、8世紀初めにはイスラムの支配下に入る。1085年“レコンキスタ”(国土回復運動)でアルフォンソ6世の指揮のもとキリスト教徒が統治を回復し、爾来16世紀までスペイン帝国の首都として栄えたのである。

 城砦都市トレドの値打ちを知るには、先ず旧市街を見晴らす展望台へ。3方をタホ川に囲まれた岩山の上に築かれ、全体が一つの巨大な要塞のようになった旧市街の光景は圧巻。見渡す限りの建物は土台の岩山と同じ色の薄赤褐色で統一されており、中世の世界をそっくりそのまま切り取って持ってきた感じである。(近くには、あの救国の英雄エル・シドが立て篭もったという城砦もある)

 丘の右手に見えるのがアルカサル(上記アルフォンソ6世の時代に要塞として築かれ、13〜16世紀にかけて現在の姿になった。近代の市民戦争時にはフランコ軍が立て篭もり、指揮官モスカルド大佐は捕虜となった息子の命と引き換えの降伏要求を断固拒否、人民軍総攻撃の的となったそうな)その少し左にはカテドラルの尖塔が見て取れる。本当に全体が泰西名画のような素晴らしい景観だ。

      

(トレドを一望する)    (土産物屋の名物?の剣)

 展望台を降り、タホ川を渡って旧市街へと入る。外から眺めると乾いた赤褐色の世界であるが、街の中へ足を進めると、樹木が生い茂り、意外にも緑が豊かなのには驚かされる。

 街の中心部は細い路地が入り組んでおり大型バスは入れない。そこでかなり手前で降りると先ず伝統工芸の“象嵌細工”の店へ入る。手作りの象嵌品は精巧細密な工程を要するので、小さいものでも1

万円前後と結構な値段である。(尤もデザインが古めかしく若い女性のセンスにはフィットしないようだ)

 私は入り口のコーナーに並べてあった菓子類に目をやっていると、望月さんが「“マザパン”といって、アーモンドの粉と卵白で作ったもので美味しいですよ。このタイプはここしか売ってません」と。

“限定販売”に弱い私は早速6箱を購入。(1箱850ペセタ=約600円也。帰国後箱を開くと見た目に“焼き餃子”にそっくりの姿形をしていたので思わず笑ってしまったが、食べると独特の食感があり、望月さんの言ったとおりに美味しかった。息子達にも好評。トレド土産として“サント・トメのマザパン”はオススメの一品であります)

 この店の本当の値打ち(?)は、象嵌細工の品々よりも実は「トイレとミネ水」にある。というのは、なにしろこの後、一番暑い盛りの時間帯を約2時間歩いて、トレド市街を見物して回るというのだから。

 小高い丘の上にある旧市街の中心部へ行くにはコンクリート壁沿いにエスカレーターが出来ており、これを乗り継いで上がる。(これで随分とラクだ!)

登り詰めると眼前には古い家並が重なり、その間を狭い石畳の坂道が迷路のように縫って続く。外国人ならずとも土地っ子以外は迷子になって二度と同じ場所には戻れないのでは・・・と思われる。昔から侵入者を防ぐ意味合いか、迷路に加えて、窓にはしっかりと鉄格子があり、どの家の門もじつにがっしりとしてテコでも開かぬといった感じである。しばらく歩くとカテドラルへ到着。

 ゴシック様式のカテドラル(大聖堂)は1226年フェルナンド3世によって建設が始められ、それから270年近くの歳月をかけて1493年に漸く完成をみた、スペインカトリックの総本山である。昔の大阪の大商人の家に似て、外観はそれほどのしろものではないが、中に入ると、いや、その豪華絢燗ぶりにはビックリさせられる。(ミラノのドゥオモやパリのノートルダムを見たのは十数年昔のことでやや記憶が薄れているせいがあるかもしれないが、世間的にはずっと有名なこれらの寺院よりはるかにスゴイという感じがする。さすがスペイン帝国の冨の力!というより、当時イスラムを駆逐したカトリックのパワー発揮と精神的高揚のゆえであろうか?)

 高窓のあでやかなステンドグラス、周囲の壁の聖人像群や聖歌隊席の木彫りの見事さ、正面の豪華な祭壇、その裏側の、天井まで繋がる雄渾な大理石の彫刻。そしてかっての司祭達の更衣室の天井画は、当時“早描き○○”(名前を忘れました!)と呼ばれた有名な画家の手によるもので、職人芸を見事に発揮した華やかな作品で、暫くの間じっと仰ぎ見ていたら首筋が痛くなってしまった。

 大聖堂を出ると、再び灼熱の日差しを浴びながら石畳を歩いてサント・トメ教会へ向かう。ここには“世界三大名画”の一つと言われるエル・グレコの「オルガス伯爵の埋葬」がある。(撮影禁止)礼拝堂とはドアで仕切られた前室の横壁にこの絵があり、狭い室内は大勢の観光客で押すな押すなの状態。

拝観するとなるほど評判どおりの作品でグレコの力量のほどがよく分かる。

エル・グレコ

(本名ドメニコス・テオドコブーロス)クレタで生まれ20才の時にはイコンを描く画家となって いた。その後ルネッサンスの花開いていたイタリアに移り、ティツィアーノの弟子となり油絵を学ぶ。

天性の力量はすぐに人々の知るところとなり、ある日ミケランジェロの“最後の審判”に裸体が多い ので修正してほしいとの依頼が舞いこむ。

グレコは毅然としてこれを断ったまではよかったが、そこでミケランジェロを非難するようなこと を口走った為に、イタリアに 居づらくなってトレドへと流れる。トレドでも教会から注文が舞いこむが、報酬を巡って諍(いさ か)いが絶えなかった。それでも注文が途絶えなかったのはグレコの実力の賜物であろうが、生前においてその芸術的価値を眞に評価されることはなかった。・・・私自身もその力量は認めつつも、全体にクライ画調はハッキリ言ってキライである。

(でもこの絵は素晴らしい!)

ここを出ると、タホ川を見下ろしながら遊歩道を歩き、中世そのものといった感じのサンマルティン橋を渡る。橋のたもとの斜面には竜舌蘭の花柱の残骸が沢山倒れている。(ガイドの望月さん)「日本では百年に一度とかいって一つ咲くと大騒ぎしますが、ここでは日常茶飯事で話題にもならないんですよ」

   

        (トレド市内からタホ川を望む)   (サンマルティン橋)

 バスへ戻ると、望月さん曰く「いやあ、皆様ご苦労さまでした。じつは私達ガイド仲間では、この時期、昼間のトレド観光はあまりに暑いので絶対やりたくないと言ってるんですよ〜・・・」

(一同)「?!・・・・・・」

 

第4章・オーレ!闘牛見物だぁ〜

 再びマドリード市内へ戻るともう6時過ぎ。普通なら本日の観光はこれにてお仕舞い!・・・であるが、真夏のスペインではまだまだ日は高く、日本なら午後3時といったところ。それでこれから闘牛見物へと繰り出す。(混成ツアーだから予定に入ってない人もいて、参加者は15名ほど)

 ラス・ベンダス闘牛場は古代ローマのコロセイムを彷彿とさせる石造りの円形闘技場。石造りの階段がそのまま椅子になるから、入口で300ペセタくらいを払ってクッションを借りる。

 席に座ってぐるりと周りを見渡すと、映画「グラディエーター」の闘技場の群集の一人になったような気分になる。観客は約六分の入り。座った席はスタンドの中段であるが、思っていたより闘技場との距離が近く、双眼鏡無しでも闘技の様子が手に取るようによく分かる。

   

          (闘牛場の前にて)

 闘牛はいわば一種の伝統民族芸能==相撲と歌舞伎をミックスしたようなもので、一定の様式に則って粛々と進行する。7時になると楽隊のブラスの音とともに闘牛士たちが入場する。場内を半周してのセレモニーが終わるといよいよ闘技開始。

   

 先ず荒々しい黒牛が場内に解き放たれ、露払いの闘牛士数名が勢子(せこ)の如く、赤い布で挑発する。牛は角を下げ、逞しい四股で砂を蹴立て巨体を揺らして突進する。勢子は走ってフェンスの内側に設けられた防御壁の後に隠れる。(このあたり、若干、否かなり、牛に対して卑怯な感じがしないでもない)

牛はドスン!と大きな音を響かせて防御壁にその巨体をぶつける。そこにあるのは、普段我々が見慣れた穏やかそのものの和牛などとは全く別種の、獰猛(どうもう)な猛獣そのものの姿である。

 次に馬にまたがったピカドールが登場する。馬は目隠しをされ、身の周りは防御のため厚い布を纏っ ている。誘い出された牛が馬めがけて突進してきたところを狙って、馬上のピカドールは手にした長槍 を牛の首筋にグイ!と突き立てる。忽ち鮮血がドバッ!と噴出す!・・・(かのように一瞬見えたが、これは黒沢映画の見過ぎで、実際はそうではなくて背中を赤く染めた程度)気弱な(?)私は思わず手で顔を覆い、女房は顔を伏せ、心なしか青ざめている。

 望月さんが心配顔で「大丈夫ですか?外で少し休みますか?」と女房に声をかけてくれる。(気分が悪くなって中座する日本人女性が多いとのこと)。しかし周りの観客はやんやの喝采で、肉食民族と草食民族の違いを実感する。(女房は根性でその場に留まったものの、あとは殆んどまともには見ていなかった)

 槍の一突きで少し牛を弱らせた後に、3人の銛(もり)撃ちが現れ、突進してくる牛の正面でヒラリと身をかわすや、両手に持った銛を牛の背に刺す。まさに危険な一瞬の離れ業であるが、上手く刺らなかった時は客席から大ブーイングが起きる。牛は6本の銛を背にして猛リ狂い、その怒りの凄まじさがこちらまで伝わってくるようだ。

 いよいよ最後に、トランペットの音も高らかに観衆の歓呼と拍手に迎えられて、一段と煌(きら)びやかな衣装に身を包んだ正闘牛士=マタドールの登場である。赤い布と剣(この段階では竹光!)を手に、猛牛のほんの鼻先で優雅な身のこなしを見せてヒラリヒラリと蝶のように舞う。華麗な仕種で牛をあしらう度にスタンドから歓声が湧き起こる。頃はよし、マタドールはフェンス際に戻り、剣を真剣に取り替える。さあ、クライマックスが近づく。マタドールは再び牛を弄んだ(?)後、目にも止まらぬ早業で首筋の急所に剣を一刺し。牛は少しの間闘いのポーズを見せるが、やがて前足を折ったかと思うと、その巨体が“どう”とばかりに崩れ落ちる。

 牛は事前にリハーサルをすることはなく、全くのぶっつけ本番だという。初めて晴れの大舞台に登場するや、不条理な攻撃に闘争エナルギーを爆発させて、やがてあっけない死をむかえる。始めから終わりまで僅か20分の生と死のドラマ。これが同じ手順で6回繰り返される。

 闘牛士の手順は同じだが、前述のように牛のほうはぶっつけ本番だから時にはハプニングが起き、絶対安全な筈のピカドールが、牛に倒された馬の下敷きになって圧死することもあれば、マタドールが角の一突きで瀕死の重傷を負うこともあるという。そういった予定調和破綻のスリルが地元民の人気を呼ぶ秘訣かもしれない。が、心優しき“草食の民”としては、話しのタネに1度見ればもうそれで充分である。

 予定どおりの4本を見終えたところで退場し、夕食へと向かう。

「真鍋さん、まさか血のしたたるステーキ! なんてことはないでしょうね?」

「はい、今回の旅行では“狂牛病”を避けて、牛肉料理は一切出てきませんからご安心を!」

 訪れたレストランの天井から壁から夥しい数の骨付き生ハム(=ハモンセラ−ノ)がぶら下がっている。これは“酒池”はないが、“肉林”状態であるといえよう。そこで、これはきっとウマイ生ハムが食えるぞ!と思ったら大間違い。

では最初の夕食のメニュー

 スープ(鶏ガラだしのコンソメ+細パスタ)・・・鶏特有の臭みが鼻をついてマズイ。普段は鶏好きの 女房が一口つけて拒否

豆と肉の煮込み(エジプト豆、豚バラ、鶏肉、豚と鶏の臓物)・・・食べる部分は少ないがよく煮込 んであってウマイ。

 ワインは値段が不詳というのでとりあえず赤のハーフボトルを頼んだら、結構美味しくて350ペ セタ(245円、)と、バカ安。(ビールよりも安い!)これから飲み物はワインに決める。

 食事を終えて、再び「クラリッジ」に帰り着くと11時を回っていた。明日はアンダルシア目指しての長旅で朝が早い。そそくさと風呂へ入り、ベッドへ潜り込む。かくして長〜〜い初日が幕を閉じる。

 

第5章・哀愁のコルドバ

 8月6日(月)、6時前に起床。ホテル出発7:10。スペイン人は宵っ張りで朝は遅いから、7時前に食堂は開かない。従って朝食はボックス弁当。甘いパンケーキ、ぬるいオレンジジュース、硬いオレンジ2個(オイオイ、どうやって皮をむくんだぃ?)とオソマツ極まりないが、文句を言ってもしかたがないからボソボソと食べる。

 さて、コルドバまでは途中休憩をいれて5時間の長丁場。バスはアンダルシア目指して突っ走る。窓の外は刈り取りが終わった後の黄金色に輝く麦畑と、ラマンチャ特産のブドウ畑(スペインのぶどうは背丈50〜70cmと低く、支柱や棚が無く、自生=自立している)の緑のコントラストが鮮やかだ。

 2時間程で最初の休憩。ドライブインに入ると、カフェテリアでは料理の種類が意外なほど豊富。生ビールとトルティーヤ(パンがセット)を注文し、女房と分け合って食べる。このトルティーヤは卵の香りがフワーッと広がって、昨昼のタパス料理のそれより段違いに美味しく、拾い物の一品であった。

   

          (見渡す限りのオリーブ畑)  (芝生?、いえぶどう畑)

 更に3時間ほど走る。アンダルシアへ入ると周りは一面のオリーブ畑。乾いた白い大地の上に緑の若木が整然と植樹されて、野を超え丘を超え、はるか彼方の山の中腹までズ――――ッと広がっている。

 まぁスゴイですね、スゴイですね! よくぞ植えも植えたりと感服のほかはない。(しかもこの景色はこの後もセビーリャ〜ロンダ〜ミハスにかけてもずっと続くのである。スペイン全体でいったいどれくらいのオリーブの木があることやら。オリーブオイルの値段が結構安いのも納得である)

やがてグアダルキビール川に架かるサンラファエル橋を渡って右に折れると、古都コルドバ観光の中心街へと入る。左にアルカサル(1328年アルフォンソ11世によって大改修された王宮)、右手の川に架かるローマ橋。そして、その前がメスキータの入口。

 コルドバも紀元前からローマの植民都市として繁栄し、8世紀にバクダッドから逃れたアデブ・ラーマン1世が建てた「後ウマイヤ王朝」の都となった。その最盛期の10〜11世紀には人口100万の大都市として殷賑(いんしん)を極め、当時ヨーロッパが“暗黒の中世”時代であったのに対して、この地には優美なイスラム文化の花が開いていたのである。

 12:30を回っていたので観光の前に腹ごしらえ。では昼食のメニュー

  前菜=温野菜の盛り合わせ(絹さや、グリーンピース、エリンギ、マッシュルーム、人参)

  主宰=ポークソテー、フライドポテト添え

  赤ワインは大瓶975ペセタ(約680円)と安いが、薬クサイ味でマズかった。

 昼間からフルボトルを空けたので、少々酔っ払ってしまった。さてお腹もふくれたので、いよいよメスキータ見物。

 メスキータ

 前述のアデブ・ラーマン1世がバグダッドに負けない素晴らしいモスクをつくろうとして785 年に建築を始め、以後後継者の数度に渡る増築で、2万5千人が同時に祈りを捧げることが出来る ほどの大寺院となった。“レコンキスタ“の後の16世紀、カルロス5世が周囲の反対を押し切っ て、モスク中央のドーム屋根を取り払い、大改造してカテドラルに変えてしまった。

 それでイスラ ム寺院とカトリック教会の奇妙な混合体となってしまった。イスタンブールのアヤソフィア(教会 →モスク)と反対であるが、アヤソフィアが元のドームを活かしたまま見事な建築を今日に残しているのと較べると“イスラムの寛容“―”カトリックの非寛容“を感じてしまう。

 まるで城塞のように周囲をぐるりと囲った高い塀の門を入ると、オレンジの中庭が広がる。片隅に聳え立つミナレット(=塔)を見上げると、空は澄み切ってどこまでも青く、そこから降り注ぐアンダルシアの日差しは強烈で、気温は既に40度近い。尤も空気が乾燥しているから日陰に入るとしのぎやすくホッとする。メスキータの建物の中に入ると少しヒンヤリとしてさらにしのぎやすい。

 カトリックの大改造で、入口=シュロの門を残して全て塞がれてしまい、薄暗くなった堂内はほのかな光にイスラム様式の列柱が浮かび上がって幻想的な雰囲気を醸し出す。柱の頭部のアーチは赤煉瓦と白煉瓦の縞模様になっており、そのアーチが限りなく重なり広がる様はなんとも優雅で美しい。教会ゴシック様式のゴテゴテさに較べると、イスラムデザインのシンプルで優美な素晴らしさにうっとりと酔うような感じである。

   

    (メスキータの塔)      (アラビア模様が美しいメスキータの内部)

 

          (カソリック様式の天井)

 メスキータの周りは浅草寺の仲見世よろしく土産物屋がズラリと並ぶ。ユダヤ人街、花の小径へと繋がる細い路地の両側は白壁の家並が綺麗で、その店先を覗いてまわる。“30〜50%オフ”なんて張り紙のある店の値札は近くの店の同じ品物の倍くらいになっているから用心用心。

 とある店で、女房はカラフルな陶器の敷物を気に入ってまとめ買いする。店員の姉ちゃんに値引き交渉をするがガンとして受け付けない。(全て交渉事のイスラム世界の売り場とは違うのだ!)かなり歩きまわって残り時間が少ないので諦めて金を払うや急ぎ足で集合場所へ。カンカン照りの道を少し歩いて(暑い!エジプトを思い出す)バスへ戻ると、次は2時間強のドライブでセビーリャを目指す。

   

          (土産物通り)        (花の小径)

 

第6章・セビーリャの夜は更け〜〜ナイ!

コルドバから西南西に向かって走るアンダルシア街道は一面のひまわり畑が広がる。尤も今は盛りをとうに過ぎて、ドライフラワーのような立ち枯れのひまわりであるが、6月頃の花が満開のときに来たならば、それはそれは素晴らしい光景が目の前に広がっていることであろう。誠に残念。(ひまわり畑はこのあとセビーリャ〜ロンダにかけても多く見られ、グラナダからラマンチャ地方へ向かう途中で黄色い花が盛りの箇所を見つけて少しばかり溜飲を下げたことであった)

5時前にセビーリャ到着。バスを降りると太陽はまだ中天にあり、昼真っ盛りといった感じでコルドバに負けず劣らずとにかく暑い! ここの観光のハイライトはスペイン最大の規模を誇るカテドラル=大聖堂とその傍らに立つヒラルダの塔。現地ガイド女性の案内でそちらへ向かって歩くが、観光馬車の馬達が落とした馬糞がそこかしこに転がっていてじつにクサイ。一種の観光公害だ。

 10分ほどで着いたが、どちらも5時閉門(入場は4時まで)ということで入場出来ず。ガッカリである。(当初の予定表に詳細が書いてなかった理由がここでやっと分かった。そう言えば車中で真鍋さんが「見れないかもしれません」と言っていたのを思い出す。

 でも途中渋滞もなく順調に来たのだから、はじめから見れないことは明白なわけだ。これが我が愛用の「新日本トラベル」なら本日の予定より更に2時間早めて、即ち今朝4時起きの5時出発で、午後3時過ぎにはここへ到着していたであろうと気づき、此処から日本旅行の社長に文句のひとつも言ってやりたい気持ちになったが、どうしようもないので怒りをぐっと飲み込む。)(下の写真はヒラルダの塔)

じゃあ隣のアルカサル(残忍王と呼ばれたペドロ王によって14世紀に完成された宮殿)はどうか?というとこれが月曜日は休館日とあってもうどうしようもない。で、そこの横の門をくぐるとオレンジのパティオ。尤もここのオレンジは苦くて食べられないとか(本当?)更に進むとかってユダヤ人の街であったサンタクルス街。小さなパティオで「はい、1時間10分ほど自由時間にします」とのことなので、白壁&黄色い壁に囲まれた細い路地を巡って歩く。

(数年前に較べれば女房が随分と“歩き”に強くなったので助かる。)グルグルと回っていると再び大聖堂の前に出た。正面に行くと門が開いており、入っていく人もいる。それで付いていくと建物の中へ入ることが出来た。尤も数メートル進むとブロックされているが、ともかく堂内の前面を拝むことは出来た。中はトレドの大聖堂を凌ぐほど見所がイッパイだというが、堂内前部ではそれを覗い知ることは出来ない。

残念!そこから又オレンジのパティオを通ってサンタクルス街へと戻る。まだ時間は充分あると思って途中陶器の店を見ていたら、時間のことを忘れてしまい、集合時間に10分ちょっと遅れてしまった。パティオで待っていた一行に平謝り。(皆さん本当にゴメンナサイ!)

セビーリャは‘92年に万博が開かれたことで記憶に新しいが、実は1929年にも開かれていたのである。随一の名所が見れなかった分時間が充分あるので、バスはグアダルキビール川沿いの大通りへ出たあと(この川沿いの街並の雰囲気はスペイン第四の都市の風格を感じさせてなかなかである。しかしタホ川といいこの川といい、スペインの川は濃緑色に濁って清流のイメージとは程遠い)、その昔の万博会場跡地、現在のマリア・ルイス公園をゆっくりと回る。

緑豊かな公園の中のそこかしこに当時のパビリオンが・・・最近の万博と違って本格建築であったようで・・・各国大使館などになって残っている。そのずっと奥でバスが止まる。そこはセビーリャのスペイン広場。当時スペイン=アメリカ館であったところで、大きく広がった石畳の広場の前方にはアニバル・ゴンザレスの設計になる半円形の見事な建物が翼を広げたように建っている。セビーリャ版“鳳凰堂”とでもいった感じで、赤褐色の外壁がセビーリャのどこまでも青い空によく映える。

建物にそって弓なりの広い池があり、ボートが漕げるようにもなっている。中央の太鼓橋を渡って建物の回廊を歩いてみる。壁から天井へとタイルの飾りが見事である。この建築を見たことで先程来の不満が少し癒された感じだ。

   

(元はユダヤ人街、現在はサンタクルス街)        (タホ川のほとり)

(セビーリャのスペイン広場)

このあとはフラメンコショー! 建物の中に入るとレストランシアター形式になっている。有難いことにディナーコース席が後で、我々ワンドリンクコース席が前方だ。舞台の幕が開くとバックは歌手(兼手拍子)が二人とギターのトリオ。リード歌手の声量は実に豊かで、張りのある高音がどこまでも伸びていき、大声量・絶叫歌手の尾崎紀世彦や布施 明(ちと古いか?)もマッツァオ(真っ青)といった感じである。そしていよいよダンサーの登場。

マドリードに着いて以来、彫りの深い“いわゆるスペイン美人”にとんと御目にかかったことがなかったが、ここで(ちょっと年増ではあるが)ようやくご対面。(ちょいとアンタ、そんなことより踊りを見るんですよ、踊りを!・・・)汗をほとぼらせたジプシー風の男性のソロはなかなか迫力があったが、女性の踊りは華麗といえば華麗だが、観光客向けにショーアップされすぎて(カルメンのミニ・ミュージカルなんてのもある)やや物足りないとは女房の辛口の感想。(一行の大半も同じ感想であったが、小生はスペイン美人の踊り子と、それに何よりもこれが本場のラテンだぁ!といった感じの迫力たっぷりの歌とギターで充分に満足であった)

ショーが終わると9時過ぎ。しかし外へ出るとまだ充分に明るい。これからやっと夕食。

 前菜=トルティーヤ(=スペイン風オムレツ、やっぱり朝のドライブインのほうがウマイ)、マッ

シュルームのソテー/クリーム味、カニちらしサラダ

 メイン=オヒョウのソテー、ガーリックライス添え、デザート=フルーツカクテル

 このレストランの赤ワインは1600ペセタと今回の旅行で一番高かった(といっても1120 円!)が、少し冷やしてあって芳醇マイルドで、今旅行中いちばん美味しかった。ラベルを見たら 品質で定評のある“リオハ” であった。

さて、同じテーブルのトイ面に座った二人は一見女子大教授とその教え子風。(本当のところは突っ込んで尋ねなかったが、どなたかご存知か?)話を聞いていると、なかなかの旅の達人で、男性は特に列車に乗るのが趣味で「世界の車窓をいく」をまさに地で行く感じ。

 今回も初日は「ピカソのゲルニカを見たい」と、トレドへは行かず、二人でマドリードの町中を歩いていたようだが、今朝も独自行動で、アトーチャ駅からコルドバまで‘92万博の時に出来た新幹線AVEに乗車(なかなか快適だった由)、昼食の時に一行に合流したのだとか。

(2人はこの後も、バレンシア〜バルセロナの間も列車を利用し、お昼には予定のレストランでちゃんと待っていた。それにしても初めての土地で、ごく普通のレストランをよく見つけてこれるもんだと、その優れた土地勘には感心する。)・・・後で聞いたところによると、二人は実の父娘だそうな。母親が早くに亡くなったので、お父さんに付いていってあげてるのだと。

(セビーリャの夕日)

レストランを出ると漸く夜の帳が下りていた。今夜の宿は「ホテル・アル・アンダルス・パレス」、万博のときに出来た大きなホテルで新しくて綺麗。室内もモダンなデザインで気持ちがいい。いろんな設備も充実していそうだが、部屋にはいったら11時を過ぎていたので、折角の今回の旅行中で一番のホテルライフを味わう余裕もなく、風呂を浴びたらバッタン・キューである。

アンダルシアではなかなか夜がやってこないが、その分朝は遅い。翌朝7時でもまだ薄暗い。朝食(ブッフェ)を済ませて部屋に戻った8:15頃、部屋の窓の向こうに漸く日が登ってきた。窓が大きなテレビスクリーンになったみたいだ。ゆっくりと登る真っ赤な太陽が青空に映えて美しい。廊下のガラス扉を開けて屋上に出て周りを眺めると、眼下の庭に綺麗なプールがある。今回宿泊のホテルでプールがあるのはここだけだということを今思い出した。折角水着を持参したのに勿体ないことをした。(でもよく考えれば全くそのための時間的余裕はなかったか!)

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