9日目(3月12日・木)

ローマ3日目

 今日はコロッセオ駅からフォーリ・インペリアーリ通り、そしてローマの中心部をぐるっと回ってみることにします。スタートはコロッセオと凱旋門。フォロ・ロマーノは前回(6年前)に廻ったので、今回は省略して、大通りへ。

    

(コロッセオ)      (コンスタティヌスの凱旋門)    (フォロ・ロマーノの丘)

(コロッセオからフォーリ・インペリアーリ通りへ)※

(※修理中の壁にあった写真です)

 遠くにエマヌエーレ2世記念堂を臨みながらインペリアーリ通りを歩いていくと、皇帝たちのフォロ(=広場)が見えてきます。どれも道路の下にあります。西ローマ帝国の滅亡(476年)後、ローマは蛮族の荒らすがままとなり、これら偉大な皇帝たちのフォロも次第に土砂に埋まり、忘れ去られていったという。(・・・コロッセオの基礎は地表からそのままですから、皇帝たちのフォロの一帯とコロッセオの間にはかなりの高低差があったということでしょうか?)

  

    

(アウグストゥスのフォロ=広場=と当時の想像図)

    

(トラヤヌスのマーケットと当時の想像図)

今から2千年近くも昔にこんな立派なマーケットがあったなんて驚きです!

    

(トラヤヌスのフォロ)

  

(カエサルのフォロ)

    

(ネルヴァのフォロ)

 次に見える高い塔は「トラヤヌスの記念柱」です。エジプトのオベリスクだと一枚岩から切り出したものですが、これは“輪切り”の石を積み重ねたようです。台座8m、柱約30mで、1個40トンの巨大な大理石を20個積み上げてあるそうです。

 ローマ帝国最大の領土を実現したトラヤヌス帝(在位98〜117)のダキア遠征の勝利を記念して建造されたもので、円柱の表面には遠征の戦闘場面が彫り込まれています。因みにダキアとは現在のルーマニアで、遠征は101〜102、105〜106の2回に渡って行われ、当時ダキアで豊富に産出された金・銀などの鉱物資源は、この後トラヤヌスの領土拡張の軍事資金になったという。

 頂上には、当然トラヤヌスの像があったわけですが、それが失われた後、教皇シクストゥス5世の命により、聖ペテロの像が置かれたそうです。

    

    

  記念柱の後ろにある、大きなドームの教会が「サンティッシモ・ノーメ・ディ・マリア・アル・フォロ・トライアノ教会」・・・随分と長い名前ですが、6世紀創建の由緒ある教会です。中に入ってみました。ドームの内側はなかなか綺麗です。

        

 隣のまるで”双子のドーム”のような教会は「サンタ・マリア・ディ・ロレート教会」です。

    

 

 大通り(?)を渡ると、「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」です。1885年イタリアを統一したエマヌエーレ2世の偉業を讃えるべく息子のウンベルト1世が建設を始め、着工から30年後の1925年に完成したもの。設計はジュゼッペ・サッコーニが担当したが、そのデザインは地元民からは、やれ「入れ歯」だとか「タイプライター」だとか、評判が悪いそうだ。

    

                            (記念堂)          (無名戦士の墓と衛兵)  (エマヌエル2世の騎馬像)

 基礎部分(?)の建物の中はイタリア統一戦争の歴史博物館になっています。4頭立て馬車の女神像が見事です。

 更に階段を上がると、建物の中に聖堂がありました。建物そのものが1925年完成ですから、聖堂も比較的新しいわけですが、何やら数百年前にできたような雰囲気がありました。こういう(=教会の)内装はイタリアの技術者にとってはお手のものなんでしょうね。

    

裏に回ると、屋上に上がるエレベーターがあります。一人€7と(エレベーターに乗るだけにしては)高額ですが、有難いことにシニアは半額です。屋上に出ると、ローマ市内を一望出来る素晴らしい眺めでした。

    

    

                         (真下はヴェネツィア広場)  (コロッセオも見えます)

      

 

 由緒あるサンタ・マリア・イン・アラチェリ教会の横を通って坂道を上がると、カンピドーリオ広場に出ました。

  

(サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会と坂道)

此処は古代ローマの7つの丘で一番高く、最高神ユピテルをはじめ神々の神殿があった所です。現在はミケランジェロが設計した広場となっており、“世界一美しい広場”とも言われています。 広場の先に行くと、テアトロ・マルチッェロ通りに降りる階段があり(こちらが正面?)、 此処が高い丘であることを実感します。

      

広場の中央にはマルクス・アウレリウス皇帝像があります(但しコピーで、本物は美術館の中に安置されています)

市庁舎を挟んで、2棟の美術館、「カピトリーニ美術館」(地下で繋がった)があります。1471年に教皇シスト4世(=システィーナ礼拝堂を建設)がローマ市民に贈ったブロンズ像コレクションをもとに建設されたもので、入場料€13とちょっとお高め。まずそのうちのひとつ「コンセルヴァトーリ宮」から入場。中庭にはバカでかい巨像があります。コンスタンティヌス大帝の石像で、もとはフォロ・ロマーノの中に設置されていたものだそうです。

彼は、それまで異端視されてきたキリスト教を「公認」したため、以降のキリスト教から(ある意味では実力以上に)高く評価され、また美化されて、「大帝」と呼ばれ、颯爽とした”偉丈夫”のイメージが強い(そう思っていたのは私だけか!)のですが、この像を見ると、ギョロ目の”いかつい”お顔ですね。

    

 昼時になりました。ガイドブックに“2階のカフェテリアのテラスで、フォロ・ロマーノなどを眺めながら軽食が楽しめる・・・”とあったので、行ってみます。ところがそのテラス中央エリアは何故か係員がとうせんぼ。イタリア語を解せないとあっては文句のつけようもないので、スゴスゴと室内の片隅でパニーニとカプチーノをいただきます。他の人も皆、室内でボソボソと食べていました。それで 食後にテラスに出て周囲を眺めたのでありました。

      

                        (此処で食事をする予定だったんですが・・・)

 腹ごしらえを終えて、館内巡りですが、この建物内部は迷路のようで、わかりにくいこと甚だしい。(トイレを探すのにも苦労しました)

 で、まずはブロンズ像。

      

                      (インノケンティウス10世)  (ウルバヌス8世)       (?)      (“金ピカ”のヘラクレス)

 馬や犬、動物像の造形も見事です。

  

一番のメダマはローマのシンボルともいえる、ローマ建国の伝説を具現化した「雌狼の像」・・・狼の乳を飲むロムルスとレムスは15世紀にA・ポッライオーリによって追加されたが、雌狼は紀元前5世紀エトルリア時代の作品と言われてきました。ところが、2008年に放射性炭素測定でこれもまた中世の作品であると分析されたそうですが・・・やはり歴史にはロマンが大切で、狼は古代エトルリアの見事な作品と信じることにしましょう。

 (余談ながら、この像のコピーは日比谷公園にもあります。昭和13年にイタリアから東京市に贈られたものだそうです。)

 その他にも面白い作品があります。ベルニーニのメデューサは凄惨な(?)美を感じます。「抱き合う皇帝?」はドゥカーレ宮殿にも似たのがありましたね。どちらがオリジナルでしょうか?

    

                           (ベルニーニ作のメデューサ) (抱き合う皇帝?)  (棘を抜く少年)

  中央の広間はガラス天井のモダンなアトリウムといった感じになっており、そこにアウレリウス皇帝の騎馬像などが並んでいます。この像はもとは金で覆われていたそうで、微かにその名残があり、所々が黄金で光っています。近くに立ってみると、相当に大きな像です。

    

  そして、コンスタンティヌス大帝の巨大なブロンズ像がありました。1階中庭の石像と原版は同じなのでしょうか?!

    

 「馬に襲いかかるライオン」の像は迫力があります。

 別の部屋には大理石の彫刻や胸像も並んでいます。↓「エスクィリーノのヴィーナス」は25歳前後といったところでしょうか、よく見るヴィーナスと比べて若々しく綺麗なボディラインですね。

      

                                                  (エスクィリーノのヴィーナス)

  さぁ、絵画コーナーです。↓右の「虎が牛を襲う図」は色大理石のモザイク画ですが、虎が東洋的な図柄になっていて印象に残る作品です。

    

  展示数は少ないですが、16〜18世紀の巨匠の作品もあります。ルーベンスはこの「ロムルス&レムス」が殊のほかお気に入りで、死ぬまで手許から離さなかったということです。赤児二人の表現がルーベンスならではですね。カラヴァッジョは彼独特の“光と影”の表現はなく、この作品はちょっと意外でした。

   

(ルーベンス・「ロムルスとレムス」)          (ティツィアーノ・「キリストの洗礼」)

   

(ヴェロネーゼ・「エウロパの略奪」)          (カラヴァッジョ・「女占い師」)

  

(グエルチーノ・「クレオパトラとオクタヴィアヌス」、「埋葬され天に昇る聖ペトロニア」)

  

(グイド・レーニ・「聖セバスティアーノ」、「ANIMA REATA」)

 余談ですが、レーニ(1575〜1642)はボローニャ派の巨匠、少し後の生まれ乍ら略同世代のグエルチーノ(1591〜1666)はボローニャ近くのチェント村で生まれ、ローマやボローニャで活躍し、お互いを好敵手として意識。(二人で同じようなテーマと構図がいくつかあるのもその故か?)ともに生前は相当の人気画家であったが、その後次第に忘れ去られ、近年再評価されているという。

この時はあまり聞きなれない画家の絵ということで、さっと見流しましたが、帰国後友人M氏に教えられて西洋美術館で開催の「グエルチーノ展」を観て、この二人の実力をあらためて認識した次第です。  

 

 地下を通って新館(パラッツォ・ヌオーヴォ)へと移ります。石碑のギャラリーを抜けると、「タブラリウム」・・・古代ローマの公文書館です。この遺跡の上に市庁舎が立っているのだ。  

        

                 (石版のギャラリー)     (タブラリウム)

(ウェシパシアヌスの神殿の装飾石材)

 そして、新館へ移る途中、「フォロ・ロマーノ」を上から眺めることが出来るのです。これは有難い!

      

(セウェルスの凱旋門とコンコルディア神殿跡) (フォカスの記念柱〜聖なる道〜バシリカ・ユリア) (バシリカ・アエミリア) (ティトゥスの凱旋門)

 新館に入って直ぐの処に、「エジプトコーナー」がありました。誰かがコレクションを寄贈したのでしょう。

      

 新館の展示物は彫刻が主体です。

    

                       大広間・(右は涙の老ケンタウロス)     哲人の間          皇帝の間

 ↓「ファウヌス」は珍しい赤大理石の彫刻で2世紀のもの。「鳩を抱く少女」はとても可愛いですね。古代ローマの芸術はこんな優しい作品も生み出したのですね。

        

                  ピュロス像(1世紀)  赤の戦士ファウヌス     鳩を抱く少女      円盤投げ    天使?

↓この2点の作品は、ちょっとユーモラスです。因みに「サチュロス」とは、ギリシャ神話に登場する、いたずら好きで小心者の、半人半獣の森の精霊です。

  

サチュロス  喜劇の仮面のモザイク

有名な彫刻が「瀕死のガリア人」ですこれはギリシャ・アッティカの彫刻家プラクシテレス(BC4世紀)の作品を1〜2世紀頃にローマで模作したものですが、傑作との評価が高い。ナポレオンが持ち帰ってルーブルに展示していたのが返還されたそうな。

 そして、新館で一番のお宝が「カピトリーノのヴィーナス」↓・・・17世紀に「ローマ7丘」の一つ、ヴィミナーレの丘にあるスタッツィ家の庭園で発見され、教皇ベネディクトゥス14世が買い上げたものらしいですが、これだけの作品が完全な姿形で残ったのは稀有なことでしょう。

こうしたポーズは“恥じらいのヴィーナス”と呼ばれ、そのおおもとは、やはりプラクシテレスの彫刻にたどり着くということです。

    

 この像とよく似たのがルーブルにもあるということですが、“ちょっと待った!”というか、そう言えば、一昨日のマッシモ宮にもよく似たヴィーナスがありました。こちら↑は大スターですが、マッシモ宮のヴィーナス↓は大部屋女優扱い。どこがどう違うのでしょうか? 因みに↓右の2体がプラクシテレスの「クニドスのアフロディーテー」のコピーと言われているもの。(ウイキペディアより)

       

                        再度登場=マッシモ宮のヴィーナス    クニドスのアフロディーテー

中庭に出ると、噴水の後ろに巨大な石像・・・マルフォリーノの像があります。これは近世に入っての17世紀の作品だそうです。いやぁ、見所たっぷりのカピトリーニ美術館が終了です。

 

階段を降りて、テアトロ・マルチェッロ通りを南下すると、右手・通りの向こうに「マルケルス劇場」が見えます。カエサルが円形競技場として構想し、彼の死後、アウグストゥスが建設し、甥の名前を冠した劇場とした。1万〜1万5千人を収容出来る大劇場であったらしい。帝国崩壊後は廃墟と化し、その後建設資材の供給源となって、かなりの部分が持ち去られたそうです。現在、上層部分はアパートになっているらしいが、2千年前の建物の中に住まう気分はどんなものでしょうか?ちょっと寄ってみたいが、先を急ぐので、残念ながら眺めるだけです。

    

更に進むと、見えてきたのが「サンタ・マリア・イン・コスメディン教会」。  建物に比して、鐘楼の高さが目立ちます。近づくと長い行列が出来ています。オフシーズンの平日の午後遅くというのに!・・・偶々地元高校生(?)の団体と一緒になってしまったようです。

 で、みんなの目的は・・・そう、「真実の口」です。もともとは下水道のマンホールの蓋ということですが、そう言ってしまっては身も蓋もありません。「ローマの休日」の名シーンを思い出しながら、グレゴリー・ペックとオードリーになった気分で、「海神トリトーネの口」へ手を入れましょう。

 妻は「高尾山やら、ローマ三越やら、ラスベガスやらと、アッチコッチで偽物を見てきたけれど、やっと本物にお目にかかることが出来たわ!}とご満悦です。

    

 折角ですから、教会の中にも入ってみます。6世紀に創建され、8世紀に教皇ハドリアヌス1世が増築し、ギリシャ人修道士たちに与えられたそうです。こじんまりとしていますが、3廊(=中央の身廊と両側廊)を持つバシリカ様式になっています。

    

 主祭壇の半円天井には綺麗なモザイク画がありました。

    

 

 教会と道路を挟んだ前の広場には、「フォルトゥーナの神殿」と「ヴェスタの神殿」があります。四角い形の「フォルトゥーナ」はBC75年に建設され、港の守護神ポルトゥヌスに捧げられたものだそうです。一方、「ヴェスタ」は20本のコリント式の柱に囲まれた円形の神殿です。BC2世紀に建立され、ローマに現存する大理石の神殿としては最も古いそうですが、保存状態の良いのに驚かされます。

  

(フォルトゥーナの神殿)      (ヴェスタの神殿)

 

 此処まで来たので、車の往来の激しい川岸通りを横切って、パラティーノ橋からテヴェレ川を眺めることにします。川の中央に”中之島”=ティベリーナ島があり、教会らしき建物があります。

      

 川の中に壊れた石造りの橋があります。橋桁の凝った装飾を見ると、古代ローマ時代の橋でしょうか?

           

 

 再びコスメディン教会の横を通って、チルコ・マッシモ駅方面への大通りを歩きます。緑の多い一帯です。左手に見えてきたのが、「チルコ・マッシモ」・・・古代ローマのキルクス(=戦車競技場)の跡です。BC4世紀に木造で建設され、トラヤヌス帝が巨大な石造りのモニュメントに改造し、なんと30万人収容の巨大競技場となりました。

帝国崩壊後は此処も建築用に略取され、今は“強者どもの夢の跡”で、往時を偲ぶ縁もありません。脳裏に映画「ベン・ハー」の戦車競争の場面を思い浮かべることにしましょう。

   

(チルコ・マッシモ)       (ベン・ハーの戦車競争場面)

   

(左手にはエマヌエル2世記念堂、右手にはパラティーノの丘=フォロ・ロマーノが見えます)

 道の傍らに水道がありました。チョロチョロと出しっぱなしです。蛇口を抑えると、上の小さな穴から勢いよく水が飛び出して、ラクに飲むことができます。これだと清潔だし、よく工夫されています。かなりの年代物ですが、古代ローマの時代から設置されている水飲み場なのでしょうか?

緩やかな坂道を下ると、地下鉄B線のチルコ・マッシモ駅に到着しました。当初は駅の向こうの「カラカラ浴場跡」を見るつもりでしたが、妻が「も〜ぅ、一日遺跡巡りで、ショッピング無しなんだからぁ・・・せめてスーパーくらい寄りたい!」とごもっともな言なので、これで今日の「ローマ中心部巡り」は終了にして、テルミニ駅地下のスーパー・コナドで若干のお買い物。

 

 さて、夕食ですが、妻が「歩き疲れたし、近くの・・・そう、一昨日の店がいいわ」と。私も異存はなく、再び「アンティーカ・ボエム」へ。今夜も一番乗りで、同じ席に案内されたのには笑っちゃいました。冷えた白ワインとシーフードにします。海の傍のヴェネツイアは当然ですが、ローマでも魚介類は新鮮で美味しいのです。(€38)

       

(イカとアサリのマリネ) (ペコリーノチーズと黒胡椒のパスタ) (シーフードのグリル)

 

10日目(3月13日・金)

ローマ〜成田

 旅立ちの朝となりました。妻から「時間があるなら、トレビの泉に行きたい}とのリクエスト。迎えの車は出発(14:50)の3時間前ですが、有難いことにホテルのチェック・アウトも12時とゆっくりなので、充分時間はあります。そそくさと朝飯を済ませると、ホテルから徒歩5分で地下鉄レプッブリカ駅へ。

次のバルベリーニ駅から徒歩10分くらいで「トレビの泉」へ行くことができます。古い街並みなので、地図と実際の見た目はちょっと違うので、通りすがりの人に何度か方向を確認しながら、目的地に到着しました。 が・・・!

なんと大修理中で、周りはガラス塀で囲まれ、水のない泉の底には作業員がウロウロ。ガックリです!(後で調べてみると、フェンディ社が資金を提供して、昨年7月から大修理に着手し、今年の11月に終了の予定ということらしい)

これでは再来を願ってコインを投入することもできません。

       

(こんなシーン↑を想像していたのですが・・・左=ウイキペディア、中&右=2009年10月の旅行時)

現実は下の通りです!

       

  仕方がないので、代わりに(!)バルベリーニ駅前の(小さな)噴水池をパチリ。

  

 ダメなものはダメ、情報をミスッた私がいけないんです!

 ・・・急いで地下鉄でレプッブリカ駅へ戻り、そうだ、初日に行きそびれた「サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会」へ行こう!という訳で、サークル状になった共和国広場を渡ります。

   この教会は、ディオクレティアヌス浴場の中心部にあったバジリカをミケランジェロが設計して立て直したもの。教皇ピウス4世から命じられた時、ミケランジェロは既に86歳と高齢で、教会の完成を見ることなく3年後に亡くなります。ミケランジェロは古代ローマの優れた芸術をレスペクトして、古代とルネッサンスを融合した素晴らしい設計をしたと推測されますが、その後何人かの建築家によって整合性なく建設が進み、18世紀の大改修で、浴場跡の面影は覆い隠されてしまったということで、今ミケランジェロが教会の姿を見たら、「私の意図とは全く違う!」と大いに嘆くことは必至かもしれない。

 〜〜とは、言うものの、正面入口は浴場跡の雰囲気そのままで、これがミケランジェロの意図したところなのでしょう。

    

 中に入ると、平面図でいうと、中央からギリシャ十字状に四方に通路が伸びた構造になっています。中央のドームの天井は「パンテオン」によく似た姿です。

  

  四方の礼拝室。一番右が十字架があるので、主祭壇?。堂内は淡い赤茶色、白、ライトブルーといった色大理石がふんだんに使用された暖かで豪華な雰囲気に包まれています。

      

 天井画や床の色大理石模様も豪華な感じです。

      

  祭壇画の何点かは18世紀の完成時に、サン・ピエトロ大聖堂から移されたということです。↓中央はその1点で、16世紀ヴェネツィア派の画家ロレンツォ・ロット作の(と言われる)、「天使のマドンナ」です。

  

  奥の資料展示室から裏に出ると、此処が浴場跡であることを再認識します。

    

  急いでホテルへ戻ると、部屋の片付けを済ませ、ロビーで迎えの車を待ちます。12時前に若いドライバーがやってきて空港まで送ってくれました。40分足らずで空港到着。時間は充分余裕があると思っていましたが、手荷物検査に長い行列が出来ており、余裕を持って正解でした。

    

(さらば、ローマ!)

  

(機内食)

 

あとがき

 〜〜というわけで、無事”個人旅行“が終わりました。事前準備をしていけば、イタリア語が喋れなくてもなんとかなるもんです。それにしてもまる10日間ずっと快晴続きだったのは本当にラッキーでした。

 3都市を回ってあらためて感じるのは西欧の文化の基礎にあるのがキリスト教だということです。ローマが空前の大帝国であった故に、その国教になったことにより、「西」の世界一帯に広がりました。ローマ帝国が後世に残した最大の遺産は「キリスト教」であったと言えましょう。

                                                                                (完)

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