5日目 6月13日(金)

ハワース〜マンチェスター

 

 早起きして、近くを散歩。今日はルネ川沿いを遡ります。すると立派な石橋が見えてきました。

       

 橋の脇には何やら立て看板があります。「ルネ川に架かるランカスター運河」・・・何やらよく理解できないし、時間も無いので、橋の袂でツーショットを撮って引き返しました。後で調べて分かったことですが、石橋の階段を上がると・・・上はなんと水道橋になっていて、そこをランカスター運河が流れているということです。(下右写真)せっかくいいところに来ておきながら見逃して、返す返すも残念です!

           

 よく歩いたので、朝食はモリモリ。夕食は酷かったが、朝食は普通です。

  830ホテルを出ると、田園地帯を走って、ハワースへ向かいます。

       

  ハワースは北イングランドの中央部、ウエスト・ヨークシャー州のワース渓谷を見下ろす高台にある村で、エミリー・ジェーン・ブロンデの「嵐が丘」の舞台になったことで有名な観光地。バスは次第に高台へと上っていきます。小さな駅舎と線路が見えてました。キースリー&ワーズヴァレー鉄道(ウィンダミアの列車と同じような蒸気機関車が走る観光鉄道)のハワース駅だということです。

   

 さて、エミリー・ブロンデの生涯。〜〜彼女は牧師パトリック・ブロンデの子供、一男五女の4女として1818年に生まれた。一家は1820年にハワースに移住するが程なく母が亡くなった為、幼かった末娘を以外の4人はランカシャーの寄宿学校に入る。ところがここが不衛生な環境であったためか、長女、次女と相次いで肺結核で死亡し、3女シャーロットとエミリーはハワースに戻った。

敬虔な牧師にして豊かな詩才の持ち主であった父の血をひいたか、シャーロット、エミリー、アンの3人は文学少女に育ち、エミリーは牧師館の家事の傍ら、詩作を始め、やがて小説も書き出す。1847年にシャーロット=「ジェーン・エア」、エミリー=「嵐が丘」、アン=「アグネス・グレー」と三姉妹揃って出版するが、当時女流作家に対する偏見が強く、男性名で出版するものの、エミリーとアンの作品は世間から厳しい評価しか受けなかった。

(ブロンデ3姉妹の肖像・・・公開資料より)

その翌年、父に溺愛されて我が儘に育った兄のブランウェルが過度の飲酒がもとで急死。エミーはその葬儀のときにひいた風邪をこじらせ結核になったが、何故か治療を拒み続けて、兄の死から3ヶ月後に、30歳の若さで恵まれぬ一生を終えた。そしてアンもその翌年死亡している。

唯一長女シャーロットの「ジェーン・エア」は社会に反抗する強い女性主人公が反響を呼び、彼女は実名を明かしてロンドンに出て作家としての道を歩み、やがて副牧師と結婚、幸せを掴んだかに見えたが、妊娠中毒症にかかり、1855年にやはり35歳の若さで死亡した。(尚、父だけは84歳まで長命を保った)

エミリーの「嵐が丘」がその内容に相応しい高い評価を得て有名になったのは、なんと20世紀に入ってのことだという。

本当に不幸な星の下に生まれたとしか言いいようのない兄妹たちであるが、エミリーとシャーロットはその短いしかも苦悩に満ちた生涯の中で、英国文学史上不朽の名作を残したということはあらためて感慨に堪えない。

〜〜こうした背景を踏まえて、彼女たちの情念が今も残ったような(?)ハワースの村を歩くことにします。

 人気の観光地とあってか、町外れに広い駐車場があり、そこから歩いて街の中へ・・・まず目に付くのが古めかしい建物の「オールド・ホワイトライオン・ホテル」で、300年の歴史を持つらしいですが、今も現役で人気のホテルらしいです。(1階はパブ、レストラン。写真下右はホテルの室内の様子・・・綺麗です!・・・公開資料より

           

 次にレストラン&パブの「ブラック・ブル」・・・兄のブランウェルが通いつめて身を滅ぼすもとになったパブです。そしてその横が「パリッシュ教会」。父パトリックが牧師を務めていた教会である。15世紀頃に創建されたが、彼の死後(1861)、後継の牧師が1879年に塔だけを残して取り壊したそうで、現在の建物はそれ以降のものということになる。横合いの小さな扉を押して中に入ると・・・

       

 中は外観よりも格調高く、鮮やかな色彩と細工のステンドグラスが印象的です。シャーロットを記念してアメリカ市民から送られた「アメリカの窓」という標識のあるステンドグラスもありました。「ジェーン・エア」はアメリカでも人気が高いのですね。ブロンデ一家は(アンを除いて)この教会内の地下墓地に眠っているそうです。

           

 教会の横(向かい?)にあるのが、一家が暮らした牧師館で、今は博物館となっている。(写真は公開資料より) 立寄る予定になっていましたが、T添乗員は此処を横目に見て先を急ぎます。

 博物館に入る時間余裕はなく、放牧地の脇のパブリック・フットパスという表示のある小道を抜けて丘の上に向かいます。放牧地では羊たちがのんびりと草を食んでます。

   

2030分という触れ込みでしたが、1時間弱は歩いたでしょうか、ムーアとよばれる荒地にたどり着きました。まさにここが「嵐が丘」の舞台。7月から10月にかけてヒースの花が満開になり、一面ピンク色に染まるそうです。今は早咲き(?)の花がうっすらとピンク色に・・・。

   

 帰りは別のルートを辿ります。こちらのほうが楽(らく)のようです。

       

 再び中心部へ戻ると、少し散策してみます。町外れは急勾配の坂になっています。降りていくと引き返すのに一苦労です。途中スイーツやパンの店があったので,覗いてみました。動き回って小腹が空いてきたので、ミートパイを購入。レンジでチンしてくれたアツアツは結構おいしかったです。

       

 

さあ、午後はマンチェスターへ向かいます。マンチェスターは市域内人口では9番目ながら、「北の首都」と称されて実勢的にはイギリス第二の都市だそうです。かつては綿工業で栄え、現在は金融、商業、メディア、芸術などを中心とした都市になっている。サッカーのマンチェスター・ユナイテッド=マンUは世界屈指の強豪人気クラブである。

  

(↑右の写真はバスから眺めていて目立ちましたが、現代マンチェスターのランドマークタワーと言われる「ビーサム(Beetham)タワー」・・・2006年完成で、高さ168m、47階建で。22階までがヒルトンホテル、その上はアパートだそうです)

 マンチェスター到着後、今日も昼食は自腹ということで、T添乗員が一行をモダンなビルの中に誘導しますが、適当な場所がありません。(昨夜“よく調べておきます”と言っていたのはなんだったのか?)・・・どだい35人が予約も無しに一緒に食事をするのは無理な話なので、急遽自由行動に切り替え。

我々は道中すっかり仲良くなったS夫妻・K夫妻と行動をともにすることにして、昼飯前に先ずはマンチェスター大聖堂へ。ここはヴィクトリア朝の後期にゴシック様式で創建されたが、第二次大戦でドイツ軍の空爆で甚大な被害を被り、戦後20年の歳月をかけて往時の姿を取り戻したという。しかし1996年にIRAのテロにより爆破被害を受けて修復工事をやりなおしたという“受難の歴史”を持つ大聖堂です。見かけは古めかしいが実際は新しい(?)建物です。

  

 さぁ、中に入ります。大半が現代の建築だけあって採光も充分で、ステンドグラスもちょっとモダンです

      

    

 教会見物を終えてさぁ昼食です。平日で13時を回っているというのに、近くのレストランの野外席はどこも大賑わい。勤め人たちがビール片手に談笑しており、6人分となるとなかなか席が見つかりません。仕方がないので大きなパブへ入ると、此処はほとんど客がいません。助かったぁ!。

    

モダンなビルが並ぶ広場)   (野外席のレストランは大賑わい)   (この豪華なビルの中のパブへ)

 まず例によってセルフでドリンクを手配して、料理の注文。・・・20分、30分・・・待てどくらせど料理はやってきません。厨房窓口へ何度も足を運んで催促しますが、その度に「もう少し!」・・・40分近く待ってやっと運ばれました。(こちらでは全ての料理が揃うまで客に出さないんですね!) で、その料理はというと・・・

    

(フィッシュ&チップス)      (サーモン・ソテー)       (ビーフシチューのパイ包み)

 自由時間が残り少なくなってきましたので、一同大慌てでかきこみます。待っただけあって(!)どれも大変美味しく、“イギリス料理はマズイ!なんていうのは誰だ?”というほどの結構なお味でした。(できることなら、ゆっくり味わいたかったなぁ!・・・)

 集合場所へ帰りがてら市庁舎へ。その当時、当代随一の建築家であったアルフレッド・ウオーターハウスの設計により、ヴィクトリア朝ネオゴシック様式で1877年に完成したもの。中央の塔(鐘楼)にある大時計「グレイト・エイベル」はロンドンの「ビッグベン」に匹敵するとか。

 中に入ると、荘重にして豪華絢爛。マンチェスターの都市としての伝統と実力を示していると言えます。カフェも雰囲気があります。おや!此処で式を挙げたのでしょうか?新郎新婦が現れました。

      

      

 

 午後3時半にマンチェスターを出発してリヴァプールへ。

リヴァプールは17世紀後半からチェスターに代わって貿易港として勃興、アフリカ=新大陸=ヨーロッパを結ぶ三角貿易の拠点として独占的な地位を占め繁栄した。ところが第二次大戦ではマンチェスターと同じくドイツ軍の猛爆にさらされ、戦後の50年代イギリスが長期停滞に陥るのと並行して急速に斜陽化していった。しかし60年代後半から大規模な都市再建計画が始まり、これが奏功。現在は観光に注力し、ビートルズ4人の生誕の地として人気の町となっている。

先ずは郊外にあるホテル、クラウンプラザ・ジョンレノンエアポートに向かいます。かってのスピーク空港が2002年に「リヴァプール・ジョンレノン空港」と改称。このホテルは以前空港ターミナルビルであったものをホテルに改装したらしい。それで、ウン?とちょっと怪訝に思えるホテルの名前になっています。ホテルがとくにジョン・レノン縁(ゆかり)ということではないのですね。

 空港近くですから、周りは広々として・・・何もありません。せっかくリヴァプールに来てなんでこんな辺鄙なホテルに・・・と思いましたが、部屋に入ると・・・室内は結構広く、設備・内装・備品等は上質でこれなら満足です。

      

 しばらく休憩すると、夕食はリヴァプール繁華街へと向かいます。郊外の住宅地は赤レンガの瀟洒な建物が並びます。

    

 港近くは再開発され、観光海港都市の趣きです。 大通りからは分かりませんが、19世紀の港町の雰囲気を残している地区は歴史遺産に登録されているらしいです。(こんな所・・失礼・・でも世界歴史遺産かぁ?・・・といった感じがしますが、日本も石見銀山とか富岡製糸所もなってますからね。ユネスコさんちょっとやり過ぎじゃぁないですか?!)

      

アルバート・ドッグのパノラマです。(公開資料より)

 キャヴァーン地区に入ります。この辺りに来ると、周りはもうビートルズ一色。目抜き通りにあるこのビルの2階壁面には4人の大きな像が・・・。

     

 横道に入ると、そこは「マシューストリートMathew Street」・・・この通りの中に「キャヴァーン・クラブ」があります。・・・まだ無名時代の4人が19612月に此処でデビューし、その後300回近い公演を行ったというまさにビートルズ・ファンの「聖地」といえるスポットです。(もっとも1973年に一度閉店し、その後再開発されたということで、当時のママというわけではありません) 此の通りへ来ると、誰もがもう俄(にわか)ビートルズ・ファンになってしまいます!

      

  

 さて、大通りに戻って、今夜の夕食のレストランへ。此処のビルも、バーといい階段といい、ビートルズでいっぱい!

    

 レストランはなかなか格調高いです。バーコーナーはお酒がいっぱい。シックなコスチュームに身を包んだイギリス美人が給仕してくれます。

      

 さて、肝心の料理は・・・まず出てきた前菜は「フォアグラムースのパテ」・・・煮詰めたチャツネとカリカリの薄切りトーストが添えられており、フランス料理の一品の如しです。“これはウマイ!”と、傍らのメニューに目をやれば・・・メインは“ビーフステーキ”・・・期待して待っていると・・・出されたのは、クタクタに煮込んだ細切れビーフのマッシュポテト添え・・・ちょっとどころか大いに期待外れでした。デザートはケーキの濃厚カスタードソース添え。まぁ、前菜だけで満足しましょう!

    

店を出ようとすると、突然のにわか雨。少しロビー近くで雨宿り。壁面には20世紀のセレブたちの写真でいっぱい でした。そしてホテルに戻ると先ほどの雨がうそのように綺麗な夕焼けでした。

  

 

6日目 6月14(土)

リヴァプール〜チェスター〜トレヴァー〜バーミンガム

 

 今朝もいい天気のようです。 朝食は基本メニュー以外にも品数豊富で、モリモリと頂戴します。

 今朝は930出発とゆっくりなので、食後はビルの裏に出てみます。すっかり旅友となったSさんは“高貴高齢者“とは思えない程若々しく(否、本当に若い!)、行動力も抜群。昨夕、私たちが部屋でくつろいでる間も、さっさと周辺を歩き回っていたそうで、「面白い飛行機が結構ありますよ!」と、案内してくれます。振り向くと、空港時代名残りの”管制塔タワー“が見てとれます。

使われなくなった飛行場には、これも又使われなくなった飛行機が何機の置かれていました。

    

 ロビーに戻ると、こんなグラフィックアートがありました。ジョン・レノンへのオマージュですね。

  今日は結構忙しい。まず訪れるのは、リヴァプール大聖堂。規模において英国国教会最大というとてつもなくデカイ大聖堂ですが、20世紀に入っての建造物です。中に入ると堂々たる空間が広がっています。床上の高さは100mを超え、パイプオルガンは9700本ものパイプを使用し、これも英国内最大のものだということです。

      

 エレベーターを乗り換え、階段を上がって屋上に出ます。囲いの隙間から下を見やれば・・・リヴァプールの市街が一望できます。赤れんがの建物が多く、緑の木々に映えて綺麗な町並みで、都市再生の成果が見てとれます。

    

        

復路は途中まで階段を下りながら、この建物の“規模”を実感します。

    

 途中、王室関係の貴重品(衣類)を展示する部屋もありました。

      

再び地上(?)に戻って、広い堂内を回ってみます。黄金色に輝く祭壇が目を引きます。

      

 床の「円盤」をよく見れば、“サー・ギルス・ギルバート・スコット”の名前が見てとれます。1902年、当時弱冠22歳のスコットがなみいる先輩を差し置いてコンペに勝利し、設計の大役を任され、以降彼は大聖堂の建設に心血を注ぎますが、建設中の1960年に逝去し、聖堂の完成はそれから18年経った1978年ということで、やはりこれだけの規模ですから現代の建築技術を以てしても3/4世紀の期間を要したわけです。

 彼はまた、現在も現役の真っ赤な四角形の電話ボックスのデザイン設計でも知られてるそうです。(このボックスは日本にも輸入されたそうです・・・写真は公開資料より)

    

 さて、次はチェスターへ向かいます。青空が広がって気持ちのいい天気になりました。

    

(チェスターの町並み)

チェスターは、紀元78年頃にローマ人が地元部族と戦うためにディー川の畔に砦を築いたことから始まる長い歴足を持ち、中世英国の雰囲気を最もよく残した都市だそうである。現在も町の周囲をぐるりとローマ人が築いた城壁が取り囲んでいます。(正確には、東側と北側はローマ人、西と南はノルマン人が築き、18世紀の改修で現在の姿になったという。)

我々も城壁の上の遊歩道を歩いてみます。古い石壁はローマ時代のものでしょう。

      

 円形劇場やローマン・ガーデンの遺跡などもありました。ローマ帝国当時の、かくも辺境の地に、2000年後に形の残る建造物を構築したというのは、やっぱりローマ帝国というのはスゴイですね。

    

  

(街中にもひょこっと、遺跡があります。オッと「右」は違います!)

 東側城壁中央には時計台があります。これはヴィクトリア女王即位60周年を記念して造られたもので、此処からは町の中心が見渡せます。

    

 下に降りて、街の中心部を歩きます。城壁の東西南北の4つの門から延びる通りが交差する十字路に立っている目印の塔が「ザ・クロス」。古のローマ道の一つの起点であり、中世には役所の役人が此処で御布令を出し、人々は此処に集まって耳を傾けたという。

その周辺に、白壁に黒い木組みで2階部分が繋がって通路になっているチューダー様式の建物が並んでいます。1316世紀にかけて造られたもので、「ザ・ロウズ」と呼ばれ、現在はショッピング・アーケードとなっており、今日は土曜日なので大勢の人で賑わっています。この辺りが“中世の雰囲気をよく残している”と言われる所以かもしれませんが、ちょっとファイン・アップされすぎているような気がしないでもありません・・・。

    

  

次はチェスター大聖堂10世紀サクソン人によってベネディクト派修道院として設立され、その後ノルマン人によって1250年ごろから現在残っているゴシック様式の建物が作られて1540年代に完成。ところが、その直後の宗教改革(=ヘンリー8世の国教会設立)によって修道院は解散し、チェスター主教区の大聖堂となって現在に至っている。

    

 聖堂内に入ると・・・天井の木組みのアーチや壁面の木彫りの装飾が見事で印象的です。

    

    

 ステンドグラスも鮮やか。パイプオルガンもあります。此処で演奏を聴くことができたらそれは素晴らしいでしょう。

パイプオルガンの手前には立派な柩があります。下のボードを見ると、柩の主は167286に大司教を務めたジョン・ピアソンJohn Pearson・・・歴代大司教の中で傑出した人物であったということでしょう。

      

 大聖堂の向かいに建つのが、1869年に完成したタウンホール。マンチェスターのホールより規模は小さいですがフォルムは似てます。中へ入れば華麗な装飾を見ることができたでことでしょうが、残念ながらその時間が残っていませんでした。・・・ふぅ〜っ、1時間ちょいで、これだけの場所を回るというのは本当に忙しい!

 13時を廻って、昼食の場所へ。何やら格調高い建物で、ロビーから裏に出ると、広々とした庭があり、若い女性たちが日光浴してました。どうやらホテルのようです。(Badminton Twickenham Wentworthと表示が出てました)

  

 レストランも広々としたホールですが、“南まわり組”も一緒になって、日本人でいっぱい。Sさんと素早く動いて、先ずはビール・・・ギネスがありました。

  

 で、料理・・・先ずはトマト風味のスープ。メインは「予定表」には「コテージパイ」とありましたが、エッ、これは?・・・何やらクタクタに煮込んだドロッとしたものの上にマッシュポテトが乗っかっています。デザートはクレープ。(因みに、コテージパイとは・・・牛ひき肉と細切れ野菜をグレービーソースであえたものと、マッシュポテトを重ねてオーブンで焼いた、イギリス伝統料理・・・ということです。) ⇒場所と料理のギャップが凄い(!)ランチでした。

    

 

 次はトレヴァーへ向かいます。此処にポントカサルテ水道橋があるということです。・・・イギリスでは国中に運河が張り巡らされていて、宿泊設備のついたボートで、のんびりと運河を巡る旅をするのが人気のレジャーだそうです。バスを降りて進むと、水路の広くなったところに、そんな屋根付きボートが何艘も並んでいます。

その先に行ってみると・・・いやスゴイスゴイ!・・・峡谷のようになったディー川の上に高い橋桁の水道橋が架かっています。(遠くに見える橋と同じようなものです)

      

 橋桁がどれほど高いか・・・下まで降りて見上げれば、こんな光景になります。(降りる時間が無いので公開資料で!)

 そしてこの橋の真ん中に運河が通してあるのです。そこを屋根付きボートがゆっくりと進んでいきます。横幅は水路ギリギリですね。これでのんびりと数日間の“船旅”を楽しむんでしょうか!。子供たちがカヌーで遊んでいたりもします。

    

 我々も運河の脇を歩いて渡ることができます。手すりから下を見下ろすと、足がすくみそうです。

    

 昨日のマンチェスターの「ルネ川に架かるランカスター運河」もこんな様子だったんですね・・・。それにしても国中のあちらこちらに、運河のための水道橋を作ってあるというのはイギリス独特というか、面白いですね。

 これで本日の盛り沢山の観光は終了し、122kmほど走ってバーミンガムへ向かいます。イングランド中部に位置するバーミンガムは人口100万人を超え、人口て言えば英国第二の工業都市。98年にはサミットも開催されている。街の中は古い建物と斬新なデザインのモダンな建物が混在して奇妙なコントラストを見せています。

    

      

 さて、夕食は写真↑右の大きなビル(=ホテル?)の1階にあるシックな感じのレストランに入ります。誰かが「ガイドブックに出ている有名店だぁ!」と声を上げていました。しかして、メニューは・・・カナッペ&野菜の前菜、メインはカレー、そしてラズベリーのケーキ。 (今回のツアーの食事場所はどこも立派なところで申し分ありません。但し、食事の内容が・・・)

      

 レストランから出ると、ロビーの向かいの扉が開いて、突然に、何やらたすきをかけた若い女性の集団が現れました。結婚披露パーティで、これから2次会でも行く途中なんでしょうか?。みんなご機嫌で、カメラを向けるとはい、ポーズ!。 元気なSさん、早速彼女たちの中に入って人気者になっていました。

 今夜の宿はホリディ・イン・バーミンガム・エアポート。中心部からは外れますが、寝るだけですし、室内は清潔で及第点です。

    

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