第8章・ルクソール
30分のフライトの後、定刻でルクソール到着。カルナック神殿へと向かう道筋は、ナツメヤシの間に豊かな農地が遥か彼方まで広がっていて、砂漠の都市のイメ−ジを持っているとビックリする。快晴というかカンカン照りだが、アスワンと比べると随分としのぎやすく、49度を経験した身には爽やかとすら感じられる。
ルクソール
ルクソールは古(いにしえ)の都テーベ。BC1567年にアハメスが第18王朝を此の地に開いたのが始まりで、爾来第20王朝ラムセスⅪ(?)世まで約500年の長きに亘って新王国の首都として栄華を誇り、古代アラブ世界に君臨したのである。
それほどの都の跡であるからして、通常8日間のツアーでは、ルクソール観光に二日を掛ける〜初日、東岸(カルナック神殿、ルクソール神殿)見物のあと、午後は自由行動(大概はルクソール博物館見学や馬車に揺られてのスーク巡り)、二日目に西岸(王家の谷、王妃の谷等)をゆっくりと見て午後遅くにカイロへ〜というのが標準コース。
ところが、我が突貫ツアーはこれを一日で、いや今朝はゆっくりめの出発であったからもう11時近くになっており実質ほぼ半日で見て回ろうというのだから大変だ。果たして回りきれるのであろうか?
そこでカルナックに入る前に 思い切ってシーリフさんに申し入れる。「広い神殿を隅々までなるべく沢山見たいから説明を短くしてくださいな」と。(アブシンベルの教訓である。ほかの皆んなも多分同じ気持ではないか) シーリフさんは苦笑いしながらもこれを了承、「では、半分の時間でやりますヨ」と。
第9章・カルナック神殿
バスからは先ず海を表すという波型のウエーブ模様になった煉瓦造りの高い塀が見えてきて、それをぐるっと回った広い駐車場でバスを降りると、行く手にエジプト神殿独特の要塞を思わせるような高い塔門が見えてきた。その手前には羊の顔をしたスフィンクスがズラリと並んで出迎えて(?)くれる。
その塔門を入ると広い中庭がある。手前左手はセティU世神殿、奥右手を入るとラムセスV世神殿、そして正面奥の第2塔門手前に向かい合う巨大な立像は又してもラムセスU世の像だ。(但し、向かって左はパネジェムの像と呼ばれる。パネジェムとは何者か? それは末期王朝の第21王朝(BC1085〜935)の王或いは大神官といわれる男で、自己顕示欲ナンバーワンのラムセスの上を行き、彼の像にチャッカリと自分の名前を刻み込んだということらしい)
カルナック大神殿
カルナックにはいくつもの神殿があるというが、中でも最大規模を誇るのが、太陽神・アモンを祭るこの大神殿。アモン神はもともとただの小さな村であったテーベの地方神に過ぎなかったが、中王国時代(BC2100年頃〜)からそのテーベが発展するにつれ、古王国時代以来全エジプトの中心的な神であった太陽神・ラー信仰と結びついて国家の最高神へと出世を遂げた。
古王国時代はファラオ自身が神であったが、新王国時代になるとファラオはアモン神の力を基にした存在となった。それで歴代のファラオはアモン神に対し挙(こぞ)って神殿・石像・オベリスク等を寄進しこのような大神殿が出来上がったというわけだ。
ラムセスU世は自らが神となったので、花道にこんなデカイ石像を設営したのであろうが、自己顕示欲は彼に限ったことではなく、歴代のファラオは自らの名を残そうと、新たに造営するばかりでなく、前王の建造物を壊したり、隅に追いやったり、或いはその上に自己のカルトゥーシュを深く刻んだりと、言わば創造と破壊の混合体としてこの神殿が発展してきたわけである。
“死者”の像は胸元で腕を組み足を揃えているのに対し、“生者”の像は両手を下ろし拳を握り締め、左足を一歩前へ踏み出したポーズをとっているが、この“生者”の力の根源とされた、握りしめた拳の親指の先が殆ど皆見事に切断されている。それによって前の統治者の権力の源泉否定を意図したのだという。(以下からはもとに戻って自分の写真です)
(カルナック神殿の正門前)(小さなスフィンクスもあります)
(ラムセス3世の神殿)
第二塔門を入るといよいよ大列柱の間。ラムセスT〜セティT〜ラムセスUと親子三代の百年近くの歳月をかけて完成したという。あの映画「ナイル殺人事件」でハネムーンを楽しむ主人公二人の頭上に大岩が落ちてきた有名なシーンの現場である。何しろ高さ30M前後の巨大な柱が134本も並んでいるから、それはもう柱の林に迷い込んだような錯覚にとらわれてしまう。
その大柱には見事なレリーフや象形文字が彫りこんであり、見上げると少し残った天井部分に描かれた絵の色彩も残っている。豪壮と優雅繊細の見事な調和・融合である。これほどに見てビックリさせられてしまう遺跡もそうないであろう。
(大柱列室へ)
(柱はこんなにデカイ!)(天井に残る鮮やかな色彩!)
(壁面のレリーフが見事!)
あまり見上げすぎて少々首が痛くなって第3塔門をくぐると、青空に突き出たトトメスT世のオベリスク。第4塔門の向こうに聳えるのが高さ130mの世界最大といわれるハトシェプスト女王(トトメスTの愛娘で、例のアスワンの「切り掛けのオベリスク」の主)のオベリスク。
そこを右に曲がると、聖なる池が見える。往時、神官たちが沐浴したり、船旅の無事を祈ったりした場所だという。池の横に聖虫・スカラベの大きな石像がある。この周りを何周かするとその回数に応じていろんな願いが叶えられるという。
もとの本コースへ戻って更に奥へいくと「至誠殿」、お祈り・黙想をした場所で、二重の花崗岩になっているから中に入ると少しヒンヤリとする。
(至誠殿)
そこを出た次は、センセルトT世の神殿跡。概ね奥へ行くほど時代を遡ることになり、彼は中王国・第12王朝のファラオでBC1971〜1928と、じつに44年間の長きに亘ってその地位にあった。
(トトメス3世葬祭殿の表と裏側)
ここで行き止まりとなり、辺りの写真を撮っていると、すーっとガラペーヤ姿の男が現れて「奥の階段を上がると、とっておきの場所があるから、さあおいでヨ」とでもいうような仕草で手招きする。
ついていったらかなりのチップを要求されるであろうが、値段交渉をしている暇なんかないから、無視して近くの階段を上がって奥の院を一望すると足早に引き返す。
復路はポイントの所を横の動線で見てまわる。大列柱の間では中央を両サイドへ動いて高塀の外へ出てみる。外の壁にも見事なレリーフが施されている。
なにしろ千年を超えるファラオ達の執念の産物の集合体であるから、三日かけても足りないくらいのところを僅か2時間で見て回ろうというから大変だ。最後は小走りで集合場所へと駆けつける。(あとで振り返ると、此処が本ツアーのハイライトであった)
この後は昼食。東岸のナイル河畔の大通りはよく整備されてきれいだ。大通りを観光馬車が蹄の音も高らかに行き交う。御者の後の席は何故か皆日本人の二人連れだ。歩道の街路樹の向こうには川面に停泊する多くのクルーズ船が見てとれる。ルクソールはユネスコの指導もあって景観保持上から巨大高層ホテルの建設を禁止しているので、いきおいこういったクルーズ船が繁盛するのだとか。
今ツアーの食事はどうも内容より場所重視であり、今日も歩道を降りたナイル河畔の見晴らしのいいレストランでとる。テーブルの正面向こうには王家の谷が見てとれ、場所としては申し分なし。
(ではそこでの昼食)
(山田嬢)「本日のメインはエジプト名物・ハト料理です。なお中央テーブルの蓋をしてある食器には手を触れないでください。大皿のフルーツ、デザートはお好きなだけどうぞ」
登場したハトはスズメと見まがうほどの大きさ(=小ささ)で、両足を付けて開きの状態でコンガリ(いや黒々に近い)と
焼き上げてある。見ためにもマズそうであるが、ものは試しと少し切り取って口にする。油っぽく、焦げくさくてやっぱりマズイ。なんでこんなものが珍重されるのかさっぱり分からない(なおこれは食べ物としての“鳥”
に偏見を持つ小生のみならず、本日の大多数の意見であったので念の為)
で、添え物の“そば飯”ならぬ極細スパ入り焼き飯と温野采を食べるともう食べるものがない。そこで、大皿のデザート(=甘〜いエジプト菓子)とフルーツをアタック。大皿に横5cm大の楕円系の黒い実が積んである。ナツメヤシのようだ。“生”のそれは初体験。黒皮をむくと中には白い果肉があり、少しネットリとした食感ながらあっさりとした甘さで結構おいしい。
いくつもパクパクといきたいところだが、なにせ初物で我が胃腸がどんな反応を示すか分からないので3個で止め、後はカットしたオレンジをムシャムシャ。大下痢から回復途上のKaさんがため息ついて、「いやあホントに旺盛な食欲で感心しますねえ・・・」と。 いや、それほどでも・・・
第10章・西岸へ〜メムノンの巨像
食事の後は、近くにあるルクソール神殿を後回しにして西岸へと向かう。以前は艀(はしけ)で渡ったそうだが、満杯にならないと出航しない。それでは時間の予定が立たないと旅行業者が政府に請願して数年前に橋が架けられたのだと。但し環境保護から観光ポイントを直結するのではなく、かなり上流に架けられており、大周りして行かねばならない。(シーリフ)「折角ですから道中ルクソールの農村風景を楽しんでください」と。30分ほどかけて橋を渡り運河沿いに走って「メムノンの巨像」に到着。
原っぱの真ん中に2体の石像がポツンと立っている。みんなは高台から写真を撮っているが、私とMさんは近くまで降りて行って2体を仰ぎ見ながらその周りを一周してみる。横・後の台座部分にも見事なレリーフが見てとれる。
メムノンの巨像
プトレマイオス朝時代に何故かギリシャ神殿のメムノンのものとされ、その名前で呼ばれるようになったが、正しくは新王国が最盛期を迎えつつあった18王朝9代目のアメンホテップV世(BC1427〜1379)の像。かつては巨像の後に葬祭殿があったが、後の連中が石材として使用しやがて完全に破壊されてしまったとのことで、残っておればさぞかし見事な建築を見ることが出来たことであろうにと、まことに残念だ。
第11章・王家の谷
王家の谷へと連なる灰褐色の山の裾に部落の集落が見えてくる。(シーリフ)「この辺りは、大昔から墓泥棒が住みつき、代々盗掘を生業にして着ました。丘にある家はその者達の住みかです。100年を超えて遺跡になった家もあります。もちろん、現在は墓泥棒は出来ませんから代わりに近くで採れるアラバスターの彫り物で生計をたてるよう指導しています。あとで、その一軒に寄ります」
山の谷あいを走って広い駐車場でバスを降り、土産物屋の並ぶ道を進むと茶店がありそこを抜けるとトロッコ・カーが待機しており、乗り込むとバタバタと音を立てながら緩やかな坂道を登り、着いたところに歴代ファラオの墓がある。
見渡す限り、草木一本ない灰褐色の「死」の世界である。一枚のチケット=三ケ所の共通券という仕組みで、先ずラムセス9世の墓へ。意外と広い入り口を入るともうそこはいきなり何千年昔のファラオの世界。
両側の壁には死後から復活再生への旅路を克明に描いた絵物語と象形文字がびっしりと彫りこんである。色彩もしっかりと残っており、その絵や文字をシーリフさんが丁寧に解説してくれる。天井は星空を表現しており、鮮やかなブルーの地に浮かぶ無数の「大」の字型が星を表すそうで、じつに見事。そして現代に通ずるデザイン性さえ感じてしまう。
更にもう一つの墓に入る。スロープを下りて盗掘者対策用にと深く掘られた落とし穴に架けた板を渡ると、奥にはぽっかりと大きな空間がある。中央には一枚岩をくり貫いた大きな石棺(の下半分)が置いてある。(上蓋は調査隊が運び出そうとして失敗し、スロープの途中に放置してあった。ファラオの怒りに触れた為であろうか?)石棺の周りの岩壁を掘った幾つもの小部屋には財宝や再生時の生活用品がぎっしりと詰まっていたということで、この墓の盗掘者は一夜にして途方もない財宝を手にしたことになる。
そしていよいよ「ツタンカーメンの墓」、ここは別料金40ポンド、ガイド・写真撮影一切禁止で見物者が中へはいると大きなパイプで空気が送り込まれる。狭い階段を降りると広間。(ここにあの財宝が眠っていたのか?)
急ごしらえで間に合わせた墓らしく壁天井に装飾は一切ない。少し進むと玄室で、石棺の上蓋の代わりに今はガラス板が載せてあり、中には金箔張りの人形棺が安置してある。例の黄金のマスクに包まれたミイラを納めた人形棺は三重になっており、二つが黄金で一つが木の金張りであると。
玄室の周りはレリーフではなくフレスコ画。正面には黄金色を地にしてツタンカーメンと王妃・アンケセナーメンの姿が
スゴイ、スゴイ!本当に描かれた当時そのままに鮮やかな状態でここに存在するのだ! ハワード・カーターの執念のおかげで、5000年の時を超えて古代エジプト最盛期の文化を目で肌で直接感じ取ることが出来たのであった。
(王墓の中の様子は絵ハガキの写真を借用)
発見者ハワード・カーターとツタンカーメン
英国人カーターは遺跡のスケッチ作業員として1890年エジプトに渡り、考古学の世界に足を踏み入れた。そしてある
太陽(ラー)とスカラベ(ケペル)と篭(ネブ)―即ち“ネブ・ケペル・ラー”と読めるのだが、そんなファラオの墓・遺跡は
そしてこの王墓発見のあと、スポンサーであったカーナヴォン卿を筆頭に多くの関係者が亡くなって、これぞツタンカー
ツタンカーメンはアメンホテップ4世の弟。兄は神官達が政治を牛耳りファラオの権威を凌ぐようになったのを嫌い(いつの世も野心ある宗教者が純粋宗教世界にのみ留まるのは難しい)、それまでの全ての神を否定し、世界最初の宗教改革を断行。都をテーベから移して新都アケトアテンを建設。国民にアモン信仰を捨てて、唯一絶対の太陽神アトンの信仰を強制するとともに自らをアトン神の使い・イクナトンと名乗った。彼の時代は新しい都を中心に独特の文化の花が開き、首都アケトアテンの別名をとって“アマルナ時代”とよばれる。
しかし既成宗教勢力の反発は凄まじく、在位17年を経て、(おそらくアモン神官勢力による暗殺であろう)32歳の若さで亡くなると、僅か9歳の弟・ツタンカーメンが後継者に選ばれ、テーベへの遷都、アモン神の復活と全ては元に戻り、華やかなアマルナ時代は全否定され歴史から抹殺されてしまう。(もし小泉総理が失敗すると、野中・鈴木宗・亀井といったところが再びゾロゾロと出てくるのであろうか??・・・イヤ、これは全く関係のないことです。)
そして、神官達の傀儡政権であったツタンカーメンも在位10年、18歳の若さでこの世を去る。成長して自主政権を目指した途端、彼も又も神官達の刃にかかったのであろうか。
なお、玄室のフレスコ画に描かれた王妃・アンケセナーメンは先帝の兄イクナトンの娘、つまり彼とは叔父―姪の仲で幼ななじみでもあり大変仲がよかったという。しかし運命は皮肉であり、彼亡き後、その死に拘わった疑いを持たれる大臣(大神官?)アイと再婚することになる。そして最後は国家反逆の容疑を受けて粛清されてしまう。合掌!・・・
とにかく非力でこれといった実績のなかった幼王の急ごしらえの墓に、カーターが発見したあの目も眩むような財宝があったわけであるから、他のファラオの墓にはどれほどの埋葬品(=財宝)があったことであろうか?それは、古(いにしえ)の墓泥棒のみぞ知ることである・・・。
ほかにも、ラムセスT世、同V世の墓など素晴らしい墓は多いというが、これで王家の谷を終了し、その東の山を越えた断崖の下にある「ハトシェプスト女王の葬祭殿」へ。ここは97年にドイツの観光団が反政府ゲリラに襲われ多数の死者を出した悲劇の記憶がまだ新しい。
駐車場から葬祭殿まで長いエントランス(参道)があり、10分ほど歩かねばならない。周りには何も無いから、左右対称で中央に階段を設けた3層の建物を真正面に見据えて歩くと、それが次第に大きく目の前に迫ってくる。視覚効果を充分計算に入れた設計といえよう。建物はストレートな直線で構成されており、現代の気鋭の建築家の設計によるといっても不思議でないほど、シャープでモダンな感じがする。
外観は周りの断崖も含め、灰褐色一色で、「生命の息吹」のない極めて無機質な感じがするが、中央階段を登って2層目の奥へ行くと、彩色された壁画や天井の絵が残っており、かすかに往時の葬祭殿としての栄華を偲ぶことが出来る。
ハトシェプスト女王
クレオパトラを遡ること約1450年、エジプト最初の女王になった大変な“猛女”だ。彼女は新王国・第18王朝の三代目
側室の子トトメス3世が幼くして後を継ぐと自分はその摂政となる。飽くまで父の権力の承継に拘る彼女は、3世を遠征
この葬祭殿はその最愛の父と自分の為に建てたものであるが、彼女の存在を示す像やレリーフはどこにもない。彼女
(女王の葬祭殿の奥に残る壁画)
ここを終えると既に4時を回ってしまった。それじゃあもう東岸に帰ってルクソール神殿へ行くしかないなあと思っていたら、シーリフさんは躊躇うことなく墓泥棒の子孫のアラバスターの店へ向かう。(オイオイ、それは時間的に絶対ムリだよ〜! ン?でも何百年と続いた生業の盗掘を禁止した以上、彼らに代わりの食い扶持を与えねばならず、それが石加工業なら、そこへ観光客を連れていくのは、ガイドの義務かもしれんなあ)
そこの親爺は4人の妻がいて、日本のマスコミにも取り上げられたことのあるこの界隈きっての有名人であるとか。で、「普通のエジプト人の暮らしぶりをそのままお見せします」と導かれた、うらぶれた家に入ると先ずは吹き抜けの土間。(文字通り吹き抜けで天窓は外へオープン)見上げると壁の上部に穴があって鳩の住家となっており、そういえば土間のそこかしこに鳩の糞が落ちている。妻妾(モトイ、妻妻だ)同居どころか鳩まで同居である。
出迎えてくれた親爺は油断ならぬ鋭い目付き(ありていに言えば悪役顔)で、子供を使ってアラバスターの花瓶作りを実演し、それから売り場へと案内する。若い衆が愛想よく全員にコーラ(スプライト)を振舞う。“アラブにタダは無い”とためらってっていると、シーリフさんが「本当のサ−ビスですから、どうぞお飲みください」とのことなので遠慮なく頂戴する。
手作りの花瓶・ボウルから神々の像・オベリスク・動物など、所狭しと並んだ品々のどこかに目線がとまると忽ち店員が寄ってきて値段を吹きかける。「高い!」と言うと、「じゃあ、いくら?」と突っ込んでくる。ここがミソで、例えば彼が10ポンドで売ってもいいと思っていても、先ずは100ポンドあたりで吹きかける。だから「じゃあ、いくら?」にこちらが20とか
そうは思っていても、せっかく王家の谷まで来たんだからと、一家のお守り用にと小さな手彫りのスカラベ(これは言い値1個=1弗なのでマケようがない。でもギザのホテルの売店で同じのを見つけて、いくら?と尋ねたら、10弗と吹きかけてきた)を人数分買ってお終いにしようと思ったが、Mさんが猿の像を買ったのいつられてホルス神の像も買ってしまった。(120弗⇒30弗)これは脇の甘い買い物であったようで、後でもっとマケロといったら、ニヤリと笑って小さなアラバスターのピラミッドを一つよこした。
第12章・ルクソール神殿へ
買い物を済ませて石屋を出ると5時近くになってしまった。これから東岸へ戻ると6時になってしまう。まだ日程として
バスは橋を渡り、もときた道を帰って神殿で我々を待つ)こうすると10分ほどで神殿に入れるという算段だ。(あとで山
我々もこれで一安心、ついでにもう一度ナイル渡河クルーズも出来てラッキーと思っていたら、そうは問屋が卸さず、
(西岸から東岸へと渡る。背後右にルクソール神殿の塔門が見える)
船頭とシーリフさんが懸命に説得するが、てこでも通さぬとばかり出口の門を閉めてしまった。旅にハプニングはつき
ものとはいえ、あまりの剣幕に一時はどうなることかと心配したが、7〜8分の押し問答の末、年配の仲間がなだめてやっと上陸通過を果たすことが出来た。あとでシーリフさんの説明によると「彼は漁師で、船が勝手にやってきたので、魚が逃げた。どうしてくれる? 弁償しろ!と怒っていたのです」と。
で、夕闇が迫るトワイライトタイムのルクソール神殿へ。ここはカルナックのアモン大神殿の付属神殿として建てられた
高い塔門の前には、又してもラムセスU世の一対の坐像と二対の立像があって辺りを睥睨している。(此処は主に
中ほどにこれが現存する唯一の彼の像というツタンカーメンの石像があり、一番奥にはアレキサンー大王が寄進した
それと面白いのは、第一塔門を入った左手の建物の2階にあたる箇所に神殿に挟まるようにしてガーミア(=モスク)・ガ
第13章・カルナック神殿/音と光のショー
ここもじっくり見れば数時間を要するであろうが、40〜50分で見終えてホテルへ入る。この「ノヴォホテル」はナイルに
部屋でサッと顔を洗って一番乗りで食堂へ。程なくK&ジェニー夫妻がやってくる。彼女はごく短時間でシャワーを浴び髪もアップに変えドレスアップして登場。その手際のよさにビックリ。小生を上回る食欲でなんでもモリモリ食べている。
(ではブッフェ料理のメニュー)
かぼちゃのスープ、ほうれん草のソティ、キャベツと赤キャベツの千切り茹で、ポテトとオニオンフライ、シーフードグラタン、牛肉・チキンのソティ、ヤキトリ風、ケーキ類といったところ。私は野菜類をたっぷりと頂く。
で、さっさっと食事を済ますと、バスに乗り、再びカルナック神殿へと向かう。今晩はラッキーなことに週に一度の日本語
8時、大音響のスピーカーから古代エジプト風(?)の音楽とともに、カルナックにまつわるファラオ達の物語が流れ出し、その場所がライトアップされる。話が一段落すると係員が出てきてロープを外し、前へ進めとのジェスチャー。
次に大列柱の間へと進む。見上げると暮れなずむ深いブルーの空には上弦の月が浮かび、大列柱を照らす。なかなか幻想的な雰囲気で、ふと多くの神官達と一緒にファラオの前へ歩んでいるような錯覚に囚われる。
こうして昼間見物したコースを進んで聖なる池の横を通り、奥の大テラスの階段を上がると椅子席があって、夜の帳
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