第4章・憧れのアブシンベル大神殿

 

 さて、二日目。いよいよアブシンベルへと向かう朝は4:30起床。ひゃぁ〜早い!と驚いてはいけない。山田嬢によると、冬時間の3月はなんと2:30起床であったそうな。(もっともこの時はあまりのハードスケジュールに、ツアー一行の6割がダウンしたそうで、その反省をもとに、今回夏時間ダイヤに切り替わったのを契機に幾分ゆるやかな日程にしたようだ)

545にホテル出発。朝食は間に合わないから、バスの中でボックス弁当が配られる。(パン3種類―ビーフハムとチーズのロールサンド、デニッシュ、りんご、オレンジジュース、ヨーグルト)

空港ロビーは既に顔なじみの日本人ツアー客でいっぱい。730発、2時間20分程のフライトで、10時頃にアブシンベルへ。無事定刻に、炎熱の砂漠の中にポツンと一本曳かれた滑走路へと舞い降りる。 世界中から観光客が押し寄せるので、ターミナルビルは結構きれいでエアコンも効いている。

接続バスがセットされていて、みんな一緒にすし詰め状態に押し込まれて10分ほど走ると入場ゲートに到着。バスを降りるとモーレツな熱波が襲ってくる。なにせここはヌビア=スーダン国境に近いエジプト最南部だから、その暑さは半端じゃない。

帽子、日除けタオルを纏ってナセル湖の湖畔を歩むと、少し赤みを帯びた岩肌の向こうにあのラムセスU世の石像が見えてくる。ああ、ついにやってきたのだ!! 思わず大神殿の前に駆け寄り感激の眼差しで仰ぎ見る。(小学生のころに「アサヒグラフ」で此処とかイシス神殿の特集を見かけ、“エジプトってすごいとこだなあ!”と子供心に感動した記憶が蘇る)

      

                                                                           (左から2対目から落下した部分。でかい!)

「〜神殿はラムセスU世がヌビア地方を征服したあと、ニラミを利かす為ヌビアの方を向いて建てられました。アスワンハイダム建設によって沈むところを、ユネスコのお陰で‘68年から4年かけて此処へ移転されたのです。正面の4体の坐像のうち左から二番目は、大昔の地震で崩れ落ちてしまいました。ユネスコは“ありのまま”が大原則で、移転前のままに、足元に崩れ落ちた頭部を置いてあります。決して完全復元はしないのです。皆さん、坐像のラムセスの顔をよく見ると少しずつ違うのが分かるでしょう。左から右へ歳をとっていってるのですよ。さて次に神殿の内部ですが・・・」

解説魔のシーリフさんがいよいよ本領発揮、手製の写真集を片手に延々と丁寧な解説が続く。こちらとしてはまるでご馳走を前にして「お座り、お預け!」を食らった犬の状態で、涎を垂らしてハァハァといった按配。とうとう我慢しきれずに、躊躇するMさんを強引に誘って、二人して大神殿内部へと進む。(一人だと写真が撮れないのだ)

先ずオシリス神の姿をしたラムセスの立像(高さ10m)が8体並ぶ。大柱列の両側の壁には下部の照明に照らされて、ヒッタイトとの闘いを描いた見事なレリーフが浮かび上がる。(フラッシュ厳禁なので、レリーフをバックに高感度フィルムで撮影)

奥へ進む途中の左右には幾つもの小部屋があって、壁には同じく見事な絵物語が描かれている。日光が当たらなかったので、緑とかの色彩が三千年の時を経てなお鮮やかに残っている。一番奥の院には、神となったラムセスがアモン神、ラー神、ブタハ神の坐像を従えて、鎮座ましましている。年に一度、ラムセスの誕生日に太陽光線がここまで届いたのだという。

    

(神殿に入ったところ)(カデシュの戦いを描いたレリーフ)(一番奥の神々の像と、謎の人物)

ここもなにせ帰りのフライトの時間までそれほどの余裕がないので、隅から隅まで慌しく見て回ると、隣の小神殿へと急ぐ。

 小神殿はラムセスが最愛の后ネフェルタリの為に築いた岩窟神殿。正面にはラムセスの立像4体の間にネフェルタリの立像2体が並び、足下には子供達の姿が刻まれている。神殿の中にはハトホル神の中列があり、壁面の彩色された后のレリーフ像が見事である。

    

(大神殿と小神殿)     (小神殿)           (ナセル湖)

   

                                         (小神殿の内部)                   (ネフェルタリの壁画?)

ラムセスU世

   新王国、ラムセスT世(BC1320〜1318と在位は僅か2年)が始祖の第19王朝において、偉大な二代目・セティT世(BC1318〜1304)の次男として生まれ、父の跡を継いでBC1304〜1237迄なんと67年もの間王座にあった。上・下エジプトを再統一し、壮年期はヌビア征服等遠征に明け暮れ、トトメスV世には及ばぬとしても、帝国の版図を再び拡大した。

さしもの大ファラオも先王から引き継いだヒッタイトとの闘いでは、鉄器を持つ敵を相手に劣勢を否めず、ガデシュ(現在のレバノン内)の闘いでは(神殿内のレリーフの様子とは違って)窮地に立たされもした。足かけ20年にも及ぶ戦闘の後、彼らと世界最初の和平条約を結び、ヒッタイトの王女を后に迎えた。これにより戦乱の絶えることがなかった古代アラブの地に平和が訪れ、ラムセスの治世下、エジプト帝国は空前の繁栄を謳歌することとなる。

   偉大なるラムセスは現世において王にして同時に神となったが、当時のエジプト人の平均身長が、155cmくらいであったのに対して、彼はなんと185cmもあったそうで、周囲に抜きん出たその偉丈夫振りは彼の神格性をより高めたという。

  67年の在位中、常時500人を超える女性を後宮に囲い100人を超える子をなすという絶倫振りで、何と97歳の長寿を保ったというからまさに神がかりのエネルギーである。(后の中には4人の娘もいたという。高貴なる血筋を尊ぶがゆえに近親婚が当然という風習であったにしろ、これはちょっといき過ぎではなかろうか?・・・)

  〜という訳で、エジプト中どこへ行っても彼の像がある。度外れた自己顕示欲の持ち主で、その空前のナルシスト振りはマイケル・ジャクソンはたまたヒロミ・郷やキムタクあたりが束になっても敵わない。(比較する方がおかしいか!)

  なお、モーゼの「出エジプト」は彼の在位晩年にあたるBC1230年代のことといわれ、余談乍ら、映画「十戒」(セシル・B・デミル監督作品)では、チャールトン・ヘストンのモーゼに対し、ユル・ブリナーがラムセスを演じた。

ディズニー・アニメの「プリンス・オブ・エジプト」も同じ題材で、ラムセスはユダヤの神の怒りに悩まされる気弱な王として描かれている。何れも映画の画面上は壮年だが、実際にはもう90歳前後のことだから、さすがの偉大なラムセスも多少は気弱になったのかもしれない。

 

 再び大神殿に戻ると、入り口脇の岩壁下の薄赤い砂を掬ってビニール袋に納める。(まるで甲子園の砂である)こうして少年の頃のイメージを実像に置き換えて、満ち足りた、それでいて少し寂しいような気持でその場を後にした。直後急に風が強くなり、砂塵が舞い上がる。目も口も砂っぽくなり、土産売りの声を背に足早に帰りのバスへと急ぐ。

座席に座った途端、急に喉の渇きを覚え「ミネ水」を取り出す。既に生ぬるくなっているが委細かまわず、ゴクゴクゴク〜〜いやぁ!水がこんなにうまいとは知らなかった。砂漠に水を撒く如く、いくら飲んでもまだ身体が水を欲しがる感じだ。

 

第5章・アスワンハイダム

アブシンベルから30分程の飛行で正午頃にアスワンに到着。アスワンは英国統治時代に綿花栽培で発展し、現在 もエジプト第二の人口を誇る。(こんな暑いところに腰を据えるとは、英国人もたいしたもんだ。)

日程表では到着後昼食となっていたが、過密スケジュールなのでシーリフさんは効率を考えて臨機応変に対応する。食事は後回しで、先ずアスワンハイダムへ向かう。こちらの一帯も強風が吹き、舗装道路は周囲の砂漠から舞った砂で覆われている。

ハイダムは「現代のピラミッド」とも謂われる巨大な構築物で、日本で見慣れたダムとは様相を異にして、極めて緩やかな傾斜でコンクリートの裾を拡げており、自分の視野でも一望には捉えがたいほどで広大である。その反対側はアブシンベルへと続く広大なナセル湖が満々とナイルの水を湛えている。

(シーリフ)「当時、ナセル大統領がダム建設への支援を世界に訴えたとき、エジプトが強大になるのを恐れたイスラエルが反対工作を行ない、それでどの国も援助に応じませんでした。そこで窮したナセルは自力で資金調達をしようとスエズ運河国有化策をとりました。これに反対するイギリス、フランスそしてイスラエルとの間で第2次中東戦争が起こりました。そしてエジプトはこの戦争に勝ち、運河の国有化、ダム建設へと進んだのです。ダムは結局ソ連の技術協力で完成しました。遠くに見える巨大なコンクリートの塔がソ錬への感謝の記念碑です。」

    

                            (アスワンハイダムの上・・・遠くにソ連へ感謝の記念塔が見える)    (灼熱のアスワン地方の景色)

 

 第2次中東戦争(スエズ戦争)

  1956年、米・英がダム建設の借款援助を白紙撤回(多分イスラエルの裏工作があったであろう)したことに激怒し  たナセルはスエズ運河の国有化を宣言し、イスラエルに対してのみ航行制限措置を発表。アメリカは自国の自由航行を条件に国有化を認めたが、イスラエルを先駆けにした英・仏軍はスエズに侵攻。

ナセルは運河の全面封鎖を以ってこれに対抗し、ここに戦争勃発。アジア・アフリカ諸国を中心にした英―仏非難の国際世論を基に米・ソが協調し‘56年11月の国連緊急総会で、英・仏連合軍の撤退決議が可決され、戦闘局面では圧倒的に不利であったエジプト=ナセルは“敗者の勝利”を勝ち取った。第二次大戦後の民族主義がもっとも輝いた時ではなかったか!そしてアメリカの陰謀(いや、深慮遠謀というべきか?)により、イギリスの東アラブにおける権益は完全に失われたのである。

“第三世界”の大国への挑戦、東西冷戦の火花、西欧覇権の交代等幾つもの要素が複雑に絡みあった“アラブ版三 国志”ともいえる凄まじいばかりのパワーゲームがこのとき展開されたのであった。

(シーリフ)「ナセルは英・仏を敵にまわしたとき、日本のことわざに勇気付けられたのです。だからエジプトは日本にとて も感謝してます。どんなことわざか分かりますか?」

(一同) 「???」

(シーリフ)「それはネ、〜ナセばな、為さねば成らぬ、何事も〜ですネ!」

 アスワンハイダム

 今日も国内電力の90%近くがこのダムから供給されており、ナイル氾濫のコントロールと相俟って、(偉大なナセルが目論んだとおり)まさにエジプトの近代化を支え続けているわけである。

しかし、栄光の陰に悲惨(?)ありで、先ず当時ナセル湖の現出によって、数々の歴史遺産が水中に没した他、かつては王朝の支配者ともなったこと(=第25王朝BC750〜656はヌビア人の征服王朝)もあるヌビア人が永久にその故郷を失い、かの誇り高き水辺の民が生活の基盤を奪われて、砂漠の中の掘立小屋へと追われたのである。

 又、今日、ダムはある意味でエジプトの民に対しても牙をむいており、つまり地勢のバランス変化で地震の頻度が上がったほか、これぞ“ナイルの賜物”である肥沃な泥土が平野を潤すことが無くなり、下流の農地は次第に痩せてきて、近年農民は、窮しつつあるという。

 経済発展や中東政治リーダーシップの観点からは、今までのところバランスシートは黒字で、ナセルは偉かった!ということになるのであろうが、悠久の歴史における審判はというと、これはさてどうだか分からない・・・。

 ところで似たような話は現在進行中で、それは中国の「三峡ダム」である。近代化&工業化の錦の御旗の下、150万人の家畑と多くの歴史遺産を奪い、脆い山肌を削って造る「現代の長城」が中国国土とその周辺にいかなる影響をもたらすのか? 良識派の危惧・反対を無視して押し進めるその大プロジェクトは、アスワンハイダムよりもっと早く一つの結果=負の影響をもたらすのではないかという懸念を禁じえないのである。

 

第6章切りかけのオベリスク〜ファルーカでのセーリング

 次は、英国統治時代に彼らが製綿事業のために建設したオールド(アスワン)ダムを通って、古代の石切り場へ到着。バスを降りると、かまどの中に放り込まれたような猛烈な暑さが襲ってくる。タンポポの胞子のようなものが無数、風に舞う中を花崗岩の丘へ向かう。

そこは大昔のオベリスクの工房跡で、数多くのオベリスクを造ったハトシェプスト女王の時代に、製作途中でひび割れが発生した為放置されたままのが一つ、その時代から3500年を経た現在に至るもなんとその状態で残っている。シーリフさんの丁寧な解説により、巨大なオベリスクを素朴な道具類だけで如何にして切り出したか??当時の英知と技術の粋に暑さも忘れ、ただただ感心するばかりである。

(切りかけのオベリスクの先端)

 バスへ戻ると、直ちに「ミネ水」を取り出してグビグビ! 一息入れて2時過ぎにやっと昼食へ。川辺に出てボートに乗りナイルに浮かぶ島のひとつにあるレストランへ向かう。船を下りると石段を登り、民族楽器の音に迎えられて席へつく。状況設定は申し分なしだ。時間がズレたぶん、腹が減って食欲は旺盛。

 (ではシツコクも、その食事内容)

モロヘイヤのスープ・・・茶色の陶製深皿に入って登場したスープはイカ墨の如くに青黒く、見た目はグロテスク。味はというと、枯れ草の香りで独特のクセがあり、ハッキリ言ってマズイ!

メインはチキンソテー・・・当然ながら「地鶏」で、鳥嫌いの小生もスタミナ確保の為、意を決して(オオゲサな!)食べてみると、これが身も締まっており意外とウマイ。結局我ながら珍しいことに一切れ全部を食べてしまった。

ピクルス・・・人参、胡瓜、ポテトを酢と塩の液に漬けてあり、ちょいとショッパイ。なんと小振りの生ジャガイモをそのまま漬けたのもある。(これはやっぱりマズイ)生野菜代わりにと、そのまま或いはタヒーナ(ごまペースト)を塗ってアエーシ(パン)に挟んでしっかりとパクつく。(ほんとによく食べますネ!と傍らでMさんが呆れ顔)

よく冷えたビール(ステラビール、此処では15ポンドと少し高い)がじつにうまい!

 まずは満足の昼食の後は、レストランの船着場からファルーカ(ナイル独特の帆かけ船)に乗ってセーリング。この辺りは「淵」になっていて深緑色のナイルの流れは緩やか。それほど遠くへ行くわけではなく、その辺りを巧みな櫓さばきでゆっくりと周回する。花崗岩の岩場にはレリーフや象形文字の彫刻が目立つ。古代ファラオ達のヌビア方面遠征の証しだとかで、岩場の上には神殿等の遺跡が多い。

 漸く一行がお互いに打ち溶けてきた船上では、ジェニーちゃんがK君とのアツアツ振りを見せつけて盛り上がる。そのストレートな愛情表現に他の中年カップルも次第に感化されて(?)新婚時代に返ったようなお熱いムードがイッパイになる。

シーリフさんが丘の上の赤茶色の建物を指差して「あれが、オールド・カタラクトホテル。エジプト随一の名門ホテルで、「ナイル殺人事件」の舞台にもなりました。実際にアガサ・クリスティが泊まって執筆した部屋が現在スイートルームになっています」と。

 (ナヌ?、カ・タ・ラ・ク・ト! ではあのギザのひどいホテルはこの超名門が経営しているのか? シーリフさんに尋ねると、“然り”とのことで、全くアンシンジラブル、もといアンビリーバボー・・・)

    

(ファルーカの船上)        (後ろはオールド・カタラクトホテル)

 

第7章・炎熱のアスワン

 

  20分ほどのセーリングを終えると、再びバスに乗り、ハードなツアーにしては珍しくもまだ日も高い3時半に本日の宿・バスマホテルへと入る。ナイルや市街を見下ろす高台に建ち、ちょいと古いがその分しっとりと落ち着いた雰囲気があってとてもいいホテルだ。

ヌビア風といわれるロビーの椅子に腰をおろすと、サッとドリンクがサービスされる。グレープジュースのような色合いの飲み物はハイビスカスのジュース。香ばしいフレーバーと上品な甘味があって、飲みやすく美味しい。(以下は或るサイトから借用したホテルの写真でこのホテルを紹介してみます。)

   

                                        (砂漠の中のエントランス)    (正面)               (ロビー正面)

     

(ロビー・・・天井の絵がきれい!)

(シーリフ)「夕食は7時半に出発しますから、それまでゆっくりと休憩してください」とのことであるが、目の前には緑がきれいな中庭とプールがあり、それを見ると血が騒ぐ。ジェニーちゃんか ら「わぁ、泳ごう、泳ごう。なべさんも行くでしょう?」と声が掛かると、即「行こう、行こう!」となる。

 とりあえず部屋に入り、スーツケースを解く。部屋の内装、広さ等申し分なし。窓のカーテンを開くと、炎熱の太陽に焼かれた、日干し煉瓦の建物そして砂漠から岩山へと繋がる薄茶色一色の景色が広がる。このアングルには草木一本とて無く、あたかも「スター・ウオーズ」のジャバ・ザ・ハットが支配するタトゥーン星を連想させるような、凄まじいばかりの荒涼たる景色に思わず息を呑む。

 

    

                                                       (室内)              (これは私が撮った写真)

 そそくさと水着に着替えTシャツをはおってプールへ行くと、ジェニー&K夫妻がプールサイドのチェアーで待っていた。ジェニーは「さア、シャツを脱いでプールへ入ろうヨ、何恥ずかしがってるノ、おかしな人ネ」とか言って旦那に催促すると、自身はサッサッとビキニスタイルになって、「ねえ、なべさん、ツーショット撮ってェ〜」、「ハイヨ」(スタイルはいいが、ペチャパイなのが惜しい!・・・何考えてんだ、コノォ) 我が一行からはもう一人Sさんの奥さんがやってきた。どうも女性陣が元気なようだ。

 さぁ、いよいよ颯爽とクロールを・・・といきたいところだが、なにせ水道水でさえ歯磨きに使えないくらいだから、プールの水に顔をつけたらお腹も目もやられちゃうかもとの懸念が頭をよぎり、水面から顔を出して専ら平泳ぎ。水は循環しているので生ぬるくはなく首から下は気持いいが、顔はサウナの中に突っ込んでいるような状態で快適とは言い難い。なんとも奇妙な感じである。

 しかしペルーの原野で育った自然児・ジェニーはそんな懸念はお構いなしで、プール・バーから飛び込むは、潜るは!と元気イッパイ。いやあ、参りました! 

    

(ホテルのプール、左は私の写真)

 それでも平泳ぎとウオーキングで800mくらいこなしていると、空が曇ってきたので、リクライニングチェアに横になる。気化熱で一瞬ヒヤッとするが、忽ちのうちに乾いてサウナ状態になる。頃合いをみて部屋に戻り、バスタブに湯を張る。ここの湯は透明で問題ない。

  日が落ちて薄暗くなった頃、ロビーに集まり、晩飯へ。(シーリフ)「夜景の素晴らしいレストランへ行きます」(どうも今回は宿泊ホテルでの食事を避けているみたいだ)ホテルから一歩踏み出すと日中と変わらぬ熱気が襲う。10分ほど更に丘をのぼって着いたところはワンランク下の構えのホテルのレストラン。

  (では今晩のメニュー)

旅程表には「オリエンタル料理」とあったが、メインは川魚のフライにポテト・温野菜添え。(どこがオリエンタルじゃい!)魚の切り身の形からすると、もとはかなりデカイ魚のようで、当然味は大味。

野菜と、一見そうめんを1.5cm幅に刻んだような細パスタのコンソメ風スープが、珍しくも何かのダシ味が効いてなかなか美味しい。ちなみにこのパスタは炒めたライスにもよく入っておりこの地で最もポピュラーな素材のようだ。

もっとも暑さにやられたせいか(或いは“通じ”が悪いせいか?)珍しくも食が進まない。フライは2口、3口でギブアップ。(周りの人も元気者のジェニーちゃんを除いて同じようだ)デザートには丁寧にカットした「スイカ」が出た。真っ赤な色合いのおいしそうな見掛けによらず、甘さはイマイチ、いや今三くらいだ。

 食事を終えて、外へ出ると再び熱波が襲う。まさにイン・ザ・ヒート・オブ・ザ・ナイト!おそらく夜更けてもこの熱気は納まらないだろう。幸いホテルの空調がいいので助かる。用心をして持参の蚊取り線香を焚くが、どうも蚊は殆どいなかったようで先ず先ずの安らかな睡眠をとることが出来た。

 翌朝はこれ又珍しいことにモーニングコールは7時とゆっくりだ。勿論それより早く6時過ぎには起きて支度を済ますと、朝食へ向かう。本日も快晴、早朝はさすがにそよ風も心地よく爽やかである。ダイニングルームは既に早起きの白人達で賑わっている。  

(では、ここの朝食)

 コンチネンタル・ブッフェで、ズラリと並んだ料理は豊富であるが、こちらとしては、「生」系(野菜・サラダ・チーズ・ヨーグルト等)を避けるし、牛・羊のハム、ソーセージはマズイし・・・てなことで、自ずと品数は限られる。

 先ず、ハイビスカスジュースをたっぷり飲む(この風味、クセになりそうだ)  パンは多くの種類が並べてあるが、デニッシュ類が大変美味しい。蛋白源にスクランブルエッグを添えて食べる。

スープ甕らしき器から、ポタージュかと思って掬ったら、甘い牛乳の中に例のブツ切り細パスタを煮込んだものであった。=下の朝食写真の左下のカップ=なんとも奇妙な味・食感である。最後に丸ごとオレンジと格闘してコース終了

    

(気持ちのいいレストランと朝食)

 今朝は充分時間があるので、食後庭を散歩する。木々が濃い緑の葉を伸ばし、小鳥の囀りが響いて、砂漠の中にいることを忘れてしまう。テラスガーデンの一段高くなったところから見晴らすと、ナツメヤシ野林の緑の向こうに日干し煉瓦の家並み、そして豊かな水を運ぶナイル川、その中島に立つ豪華なイシスホテル、その先は不毛の砂漠と岩山・・・といった変化に富んだ景色が一望出来て素晴らしい。  

       

(川の向こうは灼熱の砂漠) (悠久のナイル) (ファルーカが浮かんでます)

  集合時間にロビーへ行くと、Kaさんが青い顔をして椅子に座っている。ただならぬ雰囲気である。傍らにMさんが心配顔で付き添い「どうも食あたりかなんかで、症状がキツイようですよ」と。恐れていた「下痢」の犠牲者第1号が出てしまった!それも半端な症状ではない。夜更けから下痢と嘔吐が始まったそうで、見守っている間にも何度も嘔吐を繰り返して本当に苦しそうだ。でも此処で留まるわけにはいかず、とにかく今朝はルクソールまでは一緒に行かねばならない。これが団体旅行のつらいところだ。もう一人、プールで元気に泳いでいたS夫人の旦那も浮かぬ顔をしてどうも調子が悪いとのこと。

 やはり昨日の暑さでやられたのかなあ!・・・と言っていると、山田嬢が 「昨日の気温はなんと49度もあったそうですよ!!」と。やっぱりなぁ、なにしろ今まで経験したことない暑さだったもんなぁ!

 ここで、エジプトツアー団体客のうちの何人かは確実に出るという、その劇症下痢の犠牲者についてであるが、我が一行のKaさん(とSさん)はルクソールに到着するや否や、待ち構えていた旅行会社のアシスタントに付添われてホテルへ直行。

    ただちに医者が駆けつけてくれたが言葉が通じない。Kaさんは意識も朦朧とするなか、困ったなぁと思っていると、向こうも此の種日本人の患者をしょっちゅう看て扱いには慣れているらしく、「嘔吐?、下痢?」と日本語で尋ねてきたそうで、これでホッと安心したそうな。朦朧となるのも当たり前、なんと40度近い熱があったそうだが、注射を3本うつとやがて熱は下がり嘔吐も納まったとのことで、先ずは一安心

   一日完全休養した二人は翌日復帰したが、入れ替わるように、ただ一人高いチャージを払ってビデオ撮影に忙しかったMoさんとOL3人娘の一番タフそうなコが朝飯に顔を出さない。3人娘はその後日替わりでダウンし、元気だった中年カップルの女性陣にも表情の冴えぬ人がいる・・・これじゃあ、まるで「ナイル殺人事件」ならぬ「そして誰もいなくなった」を地でいくような状況だ。最終日の朝のテーブルには誰も顔を見せなかった・・・なんてことにならないように祈ろうと、Mさんと思わず顔を見合わせたのでした。

   最終的には、もちろん全員なんとか無事にカイロを飛び立ったのであるが、やっぱり“エジプト恐るべし!” を身近に体験したことであった。

  なお蛇足ながら、私の場合は皆さんとは逆に“デナイ!”悩みとの格闘の毎日で、生野菜やヨーグルトを思い切り食べたい誘惑にかられたが、Kaさんの激しい症状を目の当たりにするとやはりそうもいかず、ひそかな悩みに苦労を重ねた日々でありました。  

 で、なんとか一同バスに乗り空港へと向かう。エジプト第二の都市だけに数多くの遺跡や博物館等の見所も多く、昨日の午後の残った時間で少しは回れたかなあ、否、あの暑さでは所詮無理だったかなあなどと思いながら、車窓から過ぎ行く街並みを振り返る。

 郊外へ出ると、シーリフさんが「エジプトでいちばんきれいな砂があるところに案内します」と言って砂丘状になった所でバスを降りて砂を拾う。今度は全員で「甲子園」状態だ。皆んなは小さいフィルムケースなどに詰めているが、小生は用意してきたポリ袋にゴソッと掬う。背後のH夫人から「そんなに採っちゃあ、砂が無くなってしまいますよ!」と冗談めかした声がかかる。

  シーリフさんはなかなか優秀なセールスマンで、バスに戻ると、昨日・今日とさりげなく身につけていたTシャツとポロシャツを見せて「ハ〜イ皆さん、いいでしょう?これはエジプト綿で出来てマス。 皆さんの名前を象形文字でカルトゥーシュ(⊂⊃の形の囲み)の中にシルク糸で刺繍してあげマス。絵柄もありマス。お好みのデザインで仕上げて明日には差し上げマス」と。特注デザイン刺繍による“あなただけの一枚”の宣伝が効いたか、大勢の人が注文。(我が家の連中は好みがウルサイので、自分で着てもいいかと各一枚だけ購入。帰って見せたらやはり誰も希望者無く、結局自分への土産となった)

 こうして炎熱のアスワンに別れを告げ、飛行機はルクソールへと向かう。窓側席となったので、窓に張り付くようにして下を見ると、ナイル川に沿った両側が細い緑のベルトのようになっているが、その外は日に焼けて黒い肌の岩山が点在する砂漠が広がり、遠くの方は熱気と砂塵で朦朧として空と大地の境目が無くなっている。(上海から北京へ飛ぶ中国大陸内部も同じような景色であったなぁ・・・)

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