(走る、走る!スペイン2000qツアー記)

=8/4〜8/11、‘01=

 

序  章

 「今年の夏はスペインに行きたい!」と春先のある日、女房が言った。(何もヨーロッパのフライパンと言われる処に暑い時期に行かなくても・・・)と喉まで出かかったが、なにせ我が家においては女房のひと声は天の声である。(私にしてもスペインは未だ行ったことがないので・・・それもまあいいか!)と、我がご贔屓(ひいき)の新日本トラベルに照会したところ、例によってテンコ盛り日程(3食+昼寝付き)の8日間コースがあったので、早速申し込む。

 予約金を払いこんで手配完了。あとは「このツアーはとにかく体力勝負だから、今から体を鍛えて置くように」と女房に言ってあったが、その後、体力増強どころか、彼女の体調がおかしくなり、病院へ。

 場合によっては大手術の可能性も?ということで、とても旅行どころの話ではない・・・という、にわかに暗雲垂れ込めた状況に追い込まれた。――さいわい、精密検査の結果は問題なしということで、暗雲をば鎧袖一触、夫婦ともども先ずは一安心。

 これでやっと“スペインモード”に入れるかと思った矢先の6月初めに、今度は「新日本〜」から「/4は必要催行人数が集まりませんからツアーは中止にします」との連絡が入る。ああ!一難去ってまた一難である。

「どこか、ほかの所にしようか?」

「うぅ〜ん、やっぱりスペインがいい」

(女房はこれまで海外といえば、台湾、香港、韓国、グアム、サイパン、ハワイ、オーストラリアで、一度はヨーロッパへ行ってみたい。でも、イギリス・フランスは年をとっても行けるから、今のうちにスペインあたりへ行ってみたいのだと)

 慌てて「エービーロード」で調べると、唯一「日本旅行」で、これと近い内容のツアーがあった。但し関西向けの商品で、出発は関空となっている。しかし、よく読むと関東人には羽田→関空は無料サービスとなっているので、それならまあいいかと早速電話を入れる。

「羽田発は早朝になる場合もありますよ。それに帰りは関空から伊丹に回ってもらうこともありますが、それでもよろしいですか?」と、もう殆んど脅し(?)のような応対であるが、これで怯(ひる)むわけにはいかない。

「結構です」と毅然(!)と答えて予約完了。

〜とまあ、安直なはずのパックツアー手配にもこうして紆余曲折があり、(いやあ、スペインへ行くのも結構オオゴトだなあ!)と痛感した次第である。

 で、あらためてボチボチ“スペインモード”へ入り、インターネットで現地情報をチェック。先ず目に飛び込んできたのは「マドリードなどの大都市は危険、危ない。スリ、置き引き、かっぱらいが横行!」

そして「バッグは首掛けすると、そのまま引っ張られるから、かえって危険」、「悪い奴らに囲まれたら、抵抗しないで素直に有り金を差し出すこと」云々等々。

 どのホームページを見てもこんな言葉で溢れており、「つい最近もプラド美術館の前で70万円スラれた人がいる」というような実例紹介もある。

 おいおい、これは結構タイヘンだぞ、エジプトよりももっと難儀かもしれないよ・・・と言っていると、

出発前に添乗員の真鍋さんという人から電話があって、「貴重品の保管にはくれぐれも注意して下さい。 朝の散歩、公園の散策は絶対にしないように」てな注意があったという。

 5月のエジプトのときも事前に添乗員から「暑さ、砂、水、蚊対策をしっかりして下さい」という注意があり、行ってみれば果してそのとおりであったので、真鍋さんの親切に感謝しつつも、危険のダメ押しを受けたみたいで、ズーンと気が重くなる。

 女房は「あなた、朝の散歩は絶対にダメですからね。私、もう安全祈願に行っときます」、「そうね、そうしといておくれ」ということで、翌日女房は我が家の初詣コース=地元三神社から池上本門寺までお参りして、道中安全をお願いしてまわってきたということである。

 現在日本からスペインへの直行便はない為、欧州のどこかを経由して行く。此の種パックツアーはどういうルートをどの飛行機で行くかは事前に分からないが、今回一週間弱前に届いた旅程表によると、

往き=関空(JAL)→フランクフルト(イベリア航空)→マドリード

帰り=バルセロナ(イベリア)→パリ《オルリー〜ドゴール》(JAL)→関空

となっていた。尚スペイン国内は全てバスの移動で、

 マドリード&トレド→コルドバ→セビーリャ→ロンダ→ミハス→グラナダ

 →カンポ・デ・クリプターナ→バレンシア→バルセロナ・・・である。

スペイン滞在中の日程表示が大雑把であり、これがチョイと気になった。(「新日本」だと詳細克明に記載してあり、そのとおりに消化していくのだが・・・)

 

  第1章・スペインへ!

 出発日、7時羽田集合だというので6時過ぎに家を出る。VISA空港ラウンジで小休止してから登場口へ。離陸ラッシュで50分ほど出発が遅れた為、関空でゆっくりする余裕がなくなる。(でも3階食堂街でしっかりと“きつねうどん”を食べて小腹を満たす)宅急便で送っておいたスーツケースを受け取ると、あたふたと搭乗手続きへ。

 添乗員・真鍋さんの周りに集まったツアー参加者は総勢30人。その2/3が女性。若い女性の二人連れが多い。スペインは彼女達を惹きつける何かがあるのかもしれない。今回一人旅はおらず、男性ではどうも私が最年長のようだ。(3人家族2組、我々を含めてカップル7組、女性5組)

 12:05定刻で出発。機内はほぼ満員。我が夫婦は中央4人掛け席であったが、偶然横の窓側席が空いていたので、移ろうとするとタッチの差でその後の女性に取られてしまった。残念。と、CA(=キャビン・アテンダント)が「後のほうに少し余裕がありますよ」と教えてくれた。さっそく行ってみると中央席の2席が空いていたので小生のみそちらに移る。(もう、いつも二人一緒じゃないと・・・という歳でもないのだ)JALは前後左右座席間の余裕が少なく窮屈との定評があるが、これで長旅が少しは楽になった。(女房も横が空いたわけだから同感である)

 北回り、窓の外は行けども行けどもシベリアの大地が果てしなく続く。私としては十数年振りに目にする景色だ。この間ソ連→ロシアと、その国家体制と社会は大きく激しく変化したが、悠久の大地は何事も無かったかのように荒涼広漠たる光景を広げている。

 途中、機内食が2回と、リフレッシュメントとしておにぎり(又はペストリー)が出る。

  昼食(夫婦とも和食をチョイス) 

鶏きじ焼き丼、鮭マヨネーズフライ、厚焼き玉子、蒲鉾、干切大根旨煮、水無月豆腐、南京そば

 和菓子(雪餅)・・・少量多品種であるが、皆上品な味付けで美味しかった。私としてはきのこ類

を豆乳ゼリーで寄せた水無月豆腐が特にグーであった。

  夕食(洋食のみ)

  ペンネ・ミートソース、カレー風味のマカロニサラダ、グレープフルーツゼリー、フルーツ、

ライロールパン・・・ペンネのミートソースは風味豊かで美味しく頂戴した。

 17:25ほぼ定刻でフランクフルト到着。広いアトリウムから入る光で明るい我々の搭乗エリアの2階フードコーナーは広いスペースをマック(関西ではマクドか!)が独占し、大勢の客で賑わっている。この後スペイン各都市でも目抜き通りの角々にはマックの店が目立ち、マック帝国主義(?)を痛感するが、はて狂牛病対策はどうなっているのであろうか?(私が心配しなくてもいいが、藤田 田さんどうでしょうか?)

(フランクフルトの空港内にて)

 イベリア航空便は2時間待ちのところ、更に約1時間遅れて20:30にようやく出発。満席。スペインの田舎のしっかり娘といった感じのCAのきびきびとした立ち振る舞いが好ましく感じられる。

 2時間半ほどのフライトであるが、国際便とあってしっかり夕食が出る。こちらとしては殆んど動かずであるからもうほぼブロイラー状態であるが、到着後の食事はないので、無理して(?)おなかに詰め込む。  その内容

  ラザニア、シュリンプサラダ、ケーキ、チーズ・・・ラザニアは結構美味しい。シュリンプサラダもいけると思ったが女房はマズイとの評価。JALのペンネにこのラザニアで、もうスペインというより、イタリアへ行ったような気分。

 23時、関空を飛び立ってから18時間をかけてようやくマドリード到着。スーツケースを待つ間に両替を済ませる。円T/Cで100ペセタ≒70円、円キャッシュでもレートはさほど不利ではないようだ。(但し手数料として1回につき1,000ペセタ取られるから、コマメに替えるとエラク損する。尚日本人相手の店や街頭の記念写真の兄ちゃんも円キャッシュに硬貨までOKで、意外と円が通用する。この辺は円の国際性というより、日本人観光客が結構多いということの証明か?)

 ポーターの後にくっついて空港の長いロビーを歩く。日本人の離着陸にはスリ・置き引きの連中が集まってくるとのことなので、空港内といえども厳戒モード。30人が列を離れぬよう身を固くして進む。

(エライコッチャ!)

 空港から30分ほどでホテル到着。本日の宿は「クラリッジ」、ロンドンの「クラリッジ」なら超一流であるが、ここはまあ五反田のビジネスホテルといったところ。なにせ街の真ん中の三叉路の先端に位置してるので通りを走る車の音が結構気になる。トイレの水圧が強く、流すとグァボッ!と大きな音がして、薄い壁から隣に筒抜けになる。

 何よりもツインのベッドの幅がかなり狭いのには閉口。右から落ちると隣のベッドとの間に挟まって

圧死。左からだと床に落っこちて脳挫傷・・・。やっとこさマドリードについた途端に脳挫傷では格好つかない。従って寝返りをうつには、無意識のうちにも身体の芯を軸にしてぶれないように(なんだかゴルフのレッスンみたいだなあ・・・)回転しなければいけないゾ・・・てなことを考えていると、いつもはバッタンキューの私もなかなか寝つかれない。(女房も同じようでモゾモゾしている)・・・・・・かくして羽田を発ってよりの長い長い一日が終わる。

 

第2章・マドリード見物/ゴヤに感激

8月5日(日)、明ければ快晴。いよいよメいっぱいの日程がスタートする。まずは腹ごしらえと1階BAR(バル)の奥にあるダイニングで質素なブッフェをしっかりと頂戴する。そのメニューは

   ハム、ベーコン、ソーセージ、チーズ、カップヨーグルト(バナナ風味)、パン、デニッシュ、

ジュース、牛乳、カフェオレ、フルーツ(オレンジ、スイカ)・・・骨付きベーコンはうまいが、

ハム・ソーセージは意外やマズイ。  

 バスはプラド美術館へと向かう。道筋はプラタナスの街路樹が青々と繁り、ロータリー広場には見事な大理石の彫刻の噴水が朝日に輝き〜と非常に綺麗な街並みである。

 ホテルから少し行ったところにレティーロ公園がある。東京でいうなら新宿御苑といったところだが、その規模が圧倒的に違う。なにせ120haとビックリの広大さなのである。

 レティーロ公園

  その昔、フェリペ2世の小さな館があり、フェリペ4世時代に宮殿と庭園が造られたが、対フラン

ス独立戦争時に殆んどが焼け落ちてしまった。今はアルフォンソ12世時代の記念碑が立ち、ベラス

ケス宮殿、クリスタル宮殿や広いバラ園があるという。本当に緑豊かで、園内を散策すれば気持ちい

いであろうが、日本人は先ず間違いなく追い剥ぎに遭うとのことで立ち入り厳禁で、窓から眺めるだ

け。誠に残念至極である。

 さてお目当てのプラド美術館は、絵画館としては世界一の規模を誇る。なにしろスペインの至宝たる絵画が8,000点も収蔵されているのである。カルロス3世時代に博物館として建築が始まり、フェルナンド7世が美術館に変更して建設を進め、1819年に開館になった新古典様式の気品漂う建物である。

 普通に見ても丸一日はたっぷりとかかるところを2時間ちょっとで見て回ろうというのだからもう大変。バスの中で現地ガイドの望月さんが見取り図片手に“これだけは外せない”というポイントを丁寧に説明してくれるので、それをメモっていくのに忙しい。(館内はガイド禁止。尚ビデオ禁止、写真はフラッシュ禁止だが、館内の照明がよく、高感度でなくても普通のフィルムで結構よく撮れていた)

 到着すると既に1階入り口は大勢の客で混雑しており、ガイドのススメで2階から入場。左手はイタリア、フランス絵画、次にフランドル、オランダの絵画、そしてその奥が「メダマその1」ベラスケス。

 ディエゴ・ベラスケス(1599〜1660)

   セビーリャ(=セビリア)に生まれ、若いときから絵に抜群の才能を発揮し、24才でフェリペ4世の宮廷画家と   なる。明るい雰囲気の肖像画を得意とし、華やかな宮廷画家として終生を全

」うした。或る意味では、画家として最も幸せな生涯を送ったと言えるであろう。

 「メディチ家の庭」、「バルタサール(カルロス王子)」、「フェリペ4世の騎馬像」等々、宮廷画家としての本領発揮の作品が並ぶ中で、最も有名なのが12室の中央にある「ラス・メニーナス(宮廷の侍女たち)」・・・侍女たちに傅(かしづ)かれた愛らしいマルガリータ王女を中心に、その奥の鏡に写るフェリペ4世夫妻。そして注目すべきが一番奥に白く光る明り取りの窓・・・

 絵から2mほど離れて左端に立つと、その窓が絵の右端に見える。ところが絵の中央までほんの数歩歩いていくと、アラ不思議!右端にあったハズの窓がちゃんと絵の中央にあるのだ。何度試してみても同じである。絵そのものの魅力とともに、ベラスケスの“空気遠近法”として後世の印象派画家達が絶賛したそのテクニックの程をじかに自分の目で確かめて、夫婦ともども感心することしきりであった。

   

(ラス・メニーナス)       (同じく)      (フェリペ4世の騎馬像)

   

 

その後、スペイン絵画群を見て更に奥へ進むと、「メダマその2」のゴヤ。

 フランシス・デ・ゴヤ(1746〜1828)

   サラゴサ(マドリードとバルセロナの中間にある都市)から50q離れた寒村で、メッキ職人の

息子として生まれたゴヤは、14才でサラゴサの或る画家の弟子となり絵の世界へ踏み出す。29

才のとき、妻の兄で、宮廷画家であったフランシス・バイユーを頼ってマドリードへ出る。義兄の

計らいでタペストリーの下絵描きとなり、ここで後の偉大なる画家への扉が開かれる。

 当時タペストリーは王侯貴族社会で流行しており、その才能を認められたゴヤのもとにやがて多

くの貴族達から肖像画の注文が舞い込むようになり、程なくして宮廷画家としての地位を確かなも

のにしていったのであった。

こうして地位も名誉も手にしたゴヤであったが、46才のとき、大西洋を臨む海辺の街カディス

滞在中に熱病に侵され聴力を失ってしまう。これを契機としてゴヤの精神の奥深いところで何かが

変わり、宮廷画家の枠を超えて、その画風、モティーフともダイナミックな変貌を遂げ乍ら発展し、

82才で亡くなるまで極めて意欲的でエネルギッシュな創作活動を続けたのである。

 先ず最初に目にするのが、彼の最高傑作といわれる「カルロス4世一家の肖像」・・・王とマリア・ルイーサ王妃等家族13人を描いた作品。

 ここから左手奥の階段を上がった階のさらに奥にあるのが、当美術館のメダマ中のメダマ、「裸のマハ」と「着衣のマハ」。古今東西最も有名な絵画の一つであろうが、しかし目(ま)の当たりにしてよく見ると、意外なことにそれほどの感動が湧いてこない。

顔と胴体がなんとなくチグハグだし、マハの肉体からは、例えばルネッサンスの裸体画の如き輝くような美しさも、或いは匂うようなエロスも感じられない。偉大なゴヤにもウイークポイントはあり、きっと彼はヌードは不得手か、或るいは本質的にキライだったのかもしれない。その「マハ」がこれだけ有名になったのは、ひとえにこの絵が持つ一種スキャンダラスな伝説のゆえであろう。

(カルロス4世一家の肖像)

   

     (裸のマハ)      (着衣のマハ)

マハ伝説

 マハのモデルは誰か?ゴヤはそれを一切明らかにしなかった為、その真相を巡って憶測が憶測

を呼び、この絵にミステリアスな話題性を付与することとなっていった。

〜或る日、ゴヤは宰相のゴトイの訪問をうける。(彼は、政治に飽いたカルロス4世に代わっ

て国政の実権を握った王妃・マリア・ルイーサの寵愛を一身に受け・・・上記「カルロス4世一家

の肖像」に描かれた幼児2人は王妃とゴトイの子供といわれる・・・、弱冠25才で宰相に抜擢さ

れていた。)

 ゴトイは「裸体画をかいてくれないか?」とゴヤを口説いた。意外なことに当時のスペイン帝

国の社会にあっては本音はともかく建て前としてはモラルが厳しく、裸体画なんぞは“もっての

ほか”、ご法度であったのである。

しかし、(聴力を失って精神的に何かが変わっていた)ゴヤは、“タブー”に挑戦する反逆の意

欲が湧き起こったのかもしれない。なんとゴトイのこの禁断の申し出を引き受けたのである。・・・

いうならば、黒沢 明監督がポルノ映画に挑んだようなものである。(当時、反モラルな行為であるモデルを引き受けたのは宰相ゴトイの愛人の一人ということではなかろうか?)

 しかしこういうことは人の噂にのぼるもので、やがてことが露見したゴヤは裁判にかけられる

が、ゴトイの圧力があってか結末はウヤムヤになってしまう。しかし肝心の「マハ」は罪を免れ

ることは出来ず、「禁断の絵」として、とある倉庫の奥深く封印され、再び世に出たのは、ゴヤ

の死後73年経った、20世紀初頭の1901年のことであったという。(じつに禁固80年に近

いという重刑ではないか!

 「マハ」の近くにはゴヤが宮廷画家であったことを証明する華やかな作品群が並んでおり、また特別室には数多いデッサンが展示されているが、なにしろ時間が限られているのでこれらは割愛して2階へと戻る。ここは彼の“黒の時代”の作品が展示されており、野原の天地に蜃気楼の如く浮かぶ「巨人」のようなシュールな作品もあるが、悪魔が自分の子供を食べている「サトゥルーヌスの我が子を食べる絵」の前に立つと思わず背筋が寒くなって、これだけは一緒に写真に収まるのは躊躇ったほどである。

 数限りない(本当にすごいエネルギーだ!)ゴヤの展示品の中で私が一番気に入ったのが「5月2日」と「5月3日」の二枚の絵・・・1808年ナポレオンの侵略に対する独立戦争の悲劇的な光景をテーマにしているが、独立戦争に立ち上がった民衆が悲惨な状況下に拘わらず、生き生きと、そしてどことなくユーモラスにさえ描かれており、ゴヤの視点の中に、原点としての愛国心、はたまた民衆に注ぐ暖かく優しい眼差しを感じて、しばし見惚れていたのであった。

   

          (サトゥルーヌス)       (5月2日)

 一階に降りるとエル・グレコのコーナーがあり、彼の技量・特徴をよく表したといわれる「二人の聖人」等があるが、圧巻はなんといってもボッシュ(=ヒエロニムス・ボス、1450?〜1516、北オランダ生まれ)の「快楽の園」・・・これまでも美術書とか少し前にも日経新聞の「美の美」等でも見て、是非実物にご対面したいなあと思っていたものである。

 右の“地獄”から中央の“楽園”そして左の“天国”と3雙(そう)の屏風のような構成になっている。右は“地獄と怪物の画家”といわれたボッシュの面目躍如であるが、やはり中央の絵に目が奪われる。あのウルトラ・シュールなダリから数百年も昔によくもこんな超現実的な表現をものにしたとは本当にビックリで、人間の想像力とはなんともスゴイもんだなあ!と感動した。

   

    (エル・グレコ)     (快楽の園)       (同じく)

 

第2章の3・スペイン広場

 美術館のつぎはスペイン広場。・・・スペインのどの都市の中心にも“スペイン広場”があるが、ここは1930年にセルバンテスを記念して造られたもの。歴史的価値としてはそれほどの代物ではないが、観光バスが必ず訪れる「名所」なので、[スリやひったくりの巣ですから、用心を!]とガイドから警戒警報が出される。

大きな池の奥に七大陸の女性が「ドン・キホーテ」を読んでいる姿が頂に乗った石塔があり、真っ青な空に映える。その前に、キホーテとサンチョ・パンサ(と馬)の銅像があり、一行は代わりばんこで側まで行って記念写真に熱中する。

   

          (スペイン広場)       (ドン・キホーテの像)

広場を出ると、地下駐車場を抜けて王宮前へ。フェリペ5世の1736年に建築が始まり、1764年に完成したイタリア様式の宮殿は2,700を超える部屋数を誇り、現在は迎賓館として使用されていると。周りには真っ直ぐな大通り。広い化粧石の歩道、整備された街路樹や花壇、緑豊かな公園と、広々と開放的な空間に清々しい光景が展開されて気持ちがいい。

   

          (王宮前)          (王宮前の広場)

本当は宮殿内を見物したいところだがそうは問屋がおろさず、再びバスに乗って免税店「レパント」へ。今日は日曜日で殆んどの店は閉まっているので、マドリード唯一の“お買い物タイム”であると。

 バスを降りて歩くときも“警戒警報”が出たままだから、ブラブラは厳禁。列を空けぬようくっついてサッサッと進み、最後尾では真鍋さんが落ちこぼれはいないか目を光らせている。まるで小学生の遠足状態である。でも納得させられるのは(それほど大きな店ではないのに)我々の到着とともに、入り口ではちゃんとガードマンが見張っているのだ。

 買い物を終える(我が夫婦はサービスのミネ水を頂戴しただけ)と次は昼食。坂道を少し歩いくと賑やかな通りに出る。その一角の古めかしい建物の居酒屋風の店へ入り、薄暗い階段を登って3階の奥の部屋へ。

タパス(おつまみ)料理というふれ込みのメニューとは

  トルティーヤ(スペイン風オムレツ)、イカ&マッシュルームのフリッター(ピリカラマヨネーズ

添え)、クリームコロッケ、サラダ(じゃがいも、胡瓜、ピーマン、オリーブ。ドレッシングは勿論

オリーブオイル)チーズ、デザート(フルーツカクテル)、パン

  ・・・タパスの種類は無数にあろうが、出てきたのはあまり調理の手数を必要としないシンプルな類で、食事というよりまさにビールのつまみで、マズくもなければウマくもなし。因みにビールは中ジョッキで300ペセタ(=210円)

 食後賑やかな通りをとんとんと歩いていくと、突然大きな空間に出る。マヨール広場。広い石畳の広場の中央には1619年にここを完成させたフェリペ3世の威風堂々たる騎馬像がある。四方を4階建ての建物に囲まれたなかなか風格のある広場だ。周囲の建物は現在アパートになっており、そこの住民からみれば巨大なパティオみたいなものだが、夜遅くまでギターを抱えた若者達で賑わうというから、よほど騒音に強い人でないと住むのは大変そうである。(それで家賃も安いのだとか)

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