第7章・ロンダ〜ミハス

8月7日(火)、8:30にホテルを出発し、ロンダへと向かう。途中の景色は一面のひまわり畑(但し立ち枯れ)、やがて登り道へとさしかかり、岩山を抉(えぐ)って作った、曲がりくねった山道を進んでいく。9:50にロンダ到着。ロンダは標高1,000米ほどの高原の町。環境保護の為新市街の外れでバスは止まる。

外へでると、乾いて少しひんやりした空気で気持ちがいい。白壁の別荘や小奇麗なリゾートマンションを見ながら坂道を下っていると、まるで箱根・強羅温泉の通りを歩いているよう感じだ。1時間の自由時間ということで少々慌しい。(女房はセビーリャのことがあるので、「あなた、絶対に遅れないように!」と厳しくクギをさす。)

公園、闘牛場(175年建設のスペイン最古の闘牛場とか)などを右に見ながら一本道をどんどんと進むと旧市街とを隔てるヌエボ橋の袂へ着く。

ロンダが何故に多くの人を惹きつけるか?が、ここへ来るとよく分かる。下の大地まで約100m、文字通りの断崖絶壁、その巨大な岩盤の上にポンと載せたように町が立っている。

現実のものとは思えない、おとぎ話の世界のような景色で、これはまさに“天下の奇観”といえよう。手摺りの上に見を乗り出して下を眺めれば、岩肌が垂直に落ち込んで足の裏がゾクゾクとしてくる。荒れた大地のはるか向こうには茶褐色の峰々が連なる。まさに絶景かな絶景かな。

   

(ロンダの旧市街を望む)   (巨岩の上に家が建つ)  (新旧市街をつなぐ石橋)

   

             (ロンダの展望台)  (ロンダ市内のカフェ)  (ロンダが遠ざかります)

本来なら橋を渡って旧市街を散策したいところだが、写真やらビデオで少し時間を食ってしまったので、女房がそれを許さない。「この街には公衆トイレがありません。喫茶店で何か飲んで、そこで借りて下さい」と真鍋さんから忠告があったので(バスの長旅では、然るべき場所で然るべく用を足すことが肝心)、大通り沿いの喫茶店へ入って用を済ませ、外のテラスの椅子に座ってアイスクリームをなめながら、つかの間のストリートウオッチング。この後、横丁の土産物通りをゆっくりと見て回る余裕もなくバスへ戻り、この清々しい街を後にする(もう1時間くらいの余裕があってもよかったのに!)

バスは山間いの道を縫って、ミハス目指して降りていく。途中、別荘開発のエリアがそこかしこに見える。丘の頂とか斜面にプールまで備えた豪華な別荘が目をひく。真新しいゴルフ場を備えた処や、今まさに開発中の箇所もある。現在スペインは結構景気がいいのだろうか?

    

(ミハスの展望レストラン)  (ミハスの白い壁と家なみ)

約2時間後、13:00にミハス到着。コスタ・デル・ソル(太陽海岸)地方という触れ込みであるが、町は山の中腹の高台にあり、肝心の海岸線ははるか彼方だ。しかし陽光溢れる坂道沿いには白壁の家並が連なって青い空に映え、そこかしこに色とりどりの花が咲き、カジュアルな格好で行き交う人の表情も明るい。まさにリゾートムードイッパイの町である。交通の要衝にあるので多くの観光バスが訪れ、駐車場は大型バスで満杯。

前の広場の木陰で、屋台の爺さんが大鍋でアーモンドに蜜をからめてカリカリにしたのを売っている。 真鍋さんが「美味しいですよ!」というので一つつまんでみたらそのとおりグー!。(帰りに1パック=300ペセタ=買って、その後バスの中からパリ空港の待合席まで、時折ポリポリとやっては楽しんだ。爺さん、グラシアス)

   

 目ざとく我々を見つけたアメリカ(カナダ?)の青年が寄ってきて、記念写真のセールス。帰りまでに仕上げますということで、全員で白い家並をバックにハイ、パチリ。

 この後は昼食。レストランは階段を上がって、コスタ・デル・ソルを見下ろす絶好の場所にある。先程の青年が「自分がここで写したんだ」と手にした写真によれば、地中海からはるかアフリカの大地までバッチリ!・・・のハズ。ところがレストランのテラスに立って見渡すと〜〜はてどうしたことか、本日は、海岸方面はモヤがかかった状態で、空と海の区別がとんとつきませぬ。ええ!?、どえりゃあ晴れとるのに、こげんこつどうしたばってん?(思わず興奮してアチコチのなまりが混じってしもうたがや)

 まあダメなものはダメで致し方なし。諦めてテーブルに着く。その昼食は〜

スープ・・・ガスパーチョ(でも想像と違って、トマト味のヴィシソワーズといった感じ→分かりま   す?・・・材料を分析すれば、トマト、玉葱、ジャガイモ、(セロリ?)、大蒜(少々)、生ク リーム、コンソメスープ?

メイン・・・鶏モモのロースト(あっさり塩味でまずまず)、フライドポテト&温野菜添え

デザート・・・プリン(というより、ババロアか?)

飲み物は、本場(=ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ)に近いので、シェリー酒を注文。

 食後は1時間強の自由時間。通りの奥を左に折れると展望台。絶壁の下はなだらかな傾斜で、本来なら、リゾート住宅地→海岸→地中海→アフリカ(!)と続いて絶景が一望出来る(ハズ)。女房が据え置きの望遠鏡に100ペセタを入れ覗いてみるが、やっぱり霞んだブルーのみで、地中海は判別出来ない。

 手前のレストランの木陰のテラスでは、年配者が椅子に腰をおろしのんびりと談笑している。時間が止まったようなのどかな風景である。我が夫婦はそんな中にあっては異質分子でセカセカと歩いては(それはアンタでしょうが!・・・女房曰く)通りの角々で写真を撮り、土産物屋を覗いて回る。

 まあ雑品が大半であるが、或る店で女房が手にした焼き物の花篭は薄いバラの花びらや葉っぱがリアルで精巧な造りでよく出来ており値段も手頃。(壊れやすそうなので、大量買いは逡巡し、少しにとどめたが、帰国後無事を確かめると、ああ!もっと大きいのやらを沢山買ってくるんだった・・・と女房は後悔の念しきり)

そうこうするうちにあっという間に時間が過ぎ、又々小走りでバスへと急ぐハメになる。(しまった、用足しを忘れた。うーん、グラナダまで我慢か!)

 しばらく走ると漸く青い海が見えてきた。海岸に向かってなだらかな傾斜地に別荘風の建物が並び、まさに地中海リゾートの雰囲気イッパイである。(写真はマラガあたりの風景)

 

第8章・グラナダ/アルハンブラ宮殿

 5時過ぎにグラナダ到着。小高い丘の上から市街を見下ろしながら坂道を下り、なにはともあれアルハンブラ宮殿へ。なんといってもスペインツアーのハイライトは此処であろう。

 グラナダとアルハンブラ宮殿

   711年イベリア半島に進出したアラブ人は忽ちのうちに半島全土を制圧し回教王国を打ち立て、各地にイスラム文化の花を開かせた。しかし11世紀に始まったキリスト教徒の“レコンキスタ”(国土回復運動)によりトレド、コルドバ、セビーリャと次々とその拠点を失っていった。そんな逆風の中で、遠く昔のローマ時代、イリベリーズと呼ばれ栄えた古都・グラナダの地に1238年建国されたグラナダ王国は、コルドバ王国滅亡のあとイスラム王朝最後の砦となり、13世紀末セビーリャからイスラム勢力を一掃した後に成立したカスティーリャ王国に対抗した。

しかしながらカスティーリャはやがて当時ヨーロッパ最強国家といわれるまでになり、1492年イサベラ女王によってグラナダは陥落。ここに“レコンキスタ”は完結し、イスラム勢力はイベリアの地から一掃されてしまったのである。(同じ年に、イサベラの支援で出帆したコロンブスが西インド諸島へ到着している!)

   アルハンブラ宮殿は、そんなレコンキスタの嵐の中にあって、イスラム文化の最後の光芒を放ったものと言えよう。

   王国初代アル・アフマール王(在位1238〜1273)は、建国後は平和外交に徹して内政に力を注ぎ、商工業を発展させて蓄えた富でアルハンブラの建設に着手した。王の意志は後継者に受け継がれ、約100年の後、7代・ユースフス1世(在位1333〜1354)の時代に漸く完成をみた。

イサベラとの闘いに破れた最後の王・ボアブデイルは、落ちのびてシェラネバダの山道にさしかかる丘の上で城を見やり、イスラム文化の華といえるこの優美な宮殿との永久(とわ)の別れに涙を流したという。

 さて、ここで現れ出(いで)たる現地ガイドは、スペイン人というよりはむしろイタリアンといった感じの超・陽気なおっちゃん。日本語ペラペラなのはいいが、なんでも(あとで聞いたところ)嫁さんが日本人とあって、やたらと余計なことまでよく知っており(さるTV番組の取材で久本雅代と親友になったらしいが、その悪影響もあるか?!)本筋そっちのけで、これでもか!と日本語ジョークを撒き散らすのには閉口。(普段はこれが結構ウケているのだろうか?)

 樹木の繁った坂道を歩いて「裁きの門」からはいる。ライオンの顔のレリーフがある頑丈な門塀をくぐると石造りの円形の広場に出る。この建物はどうもイスラム時代のものではなさそうだ(=カルロス五世宮殿でスペイン・ルネッサンスを代表する建築とか)ところがガイドは肝心の説明はどこへやら、“奈良の大仏のナゾナゾ”なんかを延々と喋りだす。私は次第に腹が立ってきた。

(トルコ〜エジプトと優秀なガイドだったこともあってか、余計強く感じるのだ)尤も和やかな雰囲気を壊すわけにもいかないので、機を覗ってソッと彼に「あんたは勘違いしてる。もっとアルハンブラについてマジメなガイドをして欲しい」と抗議。彼は素直に「ハイ、分かりました」と頷き、その後解説のトーンを変えた。

   

(アルハンブラへの入り口)    (カルロス5世宮殿)

ここからが王宮。イスラム文化の粋である。先ず「メスアールの宮殿」大理石の粉の漆喰で固めた簗や壁面のスタッコ装飾がじつに繊細で優雅。見つめているとアラビアンナイトの幻想へと誘(いざな)われるようである。

   

    (アラブ文化を示す柱装飾) (メスアールの宮殿)   (アラヤネス)

   

     (優雅なフォルムのアーチ)(ライオンの中庭)     (同じく)

   

           (繊細な美の柱列)     (アルバイシンの丘)

次に「アラヤネスの中庭」アーチのカーブを描いた柱に支えられた建物とその姿を映し出す中央の四角い池の調和が美しい。(惜しむらくは水がもう少し澄んでいて綺麗であったなら!)

続いてかの有名な「ライオンの中庭」四方にはムハマンド5世時代の124本の大理石の柱(柱といえば普通男性的であるが、この宮殿の柱は優雅で女性的ですらある)が並ぶアーケードがあり、中庭中央には12頭のライオンに支えられた噴水がある。此処は、かつてはハーレムで、2階の部屋には后たちが住んでいたという。

 建物の中に入り、「二姉妹の間」。天井の装飾は“モカラベス”と呼ばれる鍾乳石飾り。幾千もの鍾乳石が垂れ下がったかのような独創的なデザインで、繊細優雅の極みにして官能的ですらある。

 ベランダへ出ると、サクロモンテの丘、アルバイシン(=アラブ人街)等が一望出来る。絶景かな!

これからリンダハラ庭園を抜けて広いパルタル庭園へ。イスラム時代のあと、スペイン王達がイエズス会等に命じて世界中から集めた様々な植物が生い茂り、広大な林のような雰囲気である。柿の木もある。夾竹桃のトンネルは満開の時にくぐると、ため息が出るほどの鮮やかさであろう。

はるか向こうの小高い所に見えるのが「ヘネラリフェ」(=夏の宮殿)、「ええっ!、あんな遠くまで歩くんですか?」、「もちろんデス!」ガイドのおっちゃんは植物には詳しく、その説明を聞きながら歩いているといつの間にか近くまで来てしまった。

導入口の、自然(あり)のままの、或いは綺麗に形を整えられた糸杉の散歩道は一種迷路のようになっており、緑の鮮やかさに目をとられつつ、遊び心をくすぐられて楽しい気分になってくる。

回廊の中へ入ると、細長い池の周りには花々が咲き乱れ、噴水が光を浴びて煌めく。噴水の音、せせらぎの音・・・ふんだんに使われた、シェラネバダ山の雪解け水が作り出す水の音(ね)がなんとも清々しく心地よい。水の音がいつの間にか、名曲「アルハンブラの想い出」のギターのトレモロに変わっていくような〜〜そんな気がしてくるのである。

   

(夏の離宮=ヘネラリフェ)

真鍋さんが、「ナポレオンは、ピレネーを越えるとアフリカだと言いましたが、その北アフリカからやって来たムーア人達にとって、アンダルシアの大地は天国のように思えたでしょうね」と言っていたが、まさにグラナダ王国の人々はこの水の豊かな地に“地上の楽園”を実現せんとして、このアルハンブラを築きあげていったのであろう。砂漠に生きる過酷さとコーランの戒律の厳しさのみのイメージが先行するイスラム世界の、秘めたる文化と芸術の素晴らしさに感動するアルハンブラではあった。

宮殿見物が終わると次は“お買い物タイム”。グラナダ特産品は“寄木細工”ということで、案内された店へ着くと、くだんのガイドのおっちゃんが売り子に早変わり(変わってまへん、そのままや)。

寄木細工といっても、土台の薄板の上に、寄木の棒をスライスカットしたものを貼り付けて表面を磨き樹脂塗装で光沢を出したもの。貼り付け細工である。箱根の寄木細工が技のレベルが数段上と見受けられるが、折角だから記念にと10×15×5cm程の小箱を一つ買う。(3600ペセタ≒2500円)

店を出るとホテルへ。今夜の宿は「ロス・アリハレス・デル・ヘネラリフェ」。町の中心からはかなり離れた静かな場所にある、やや古めかしい感じのホテルで些か名前負けの感あり。夕食はホテル内のブッフェとあって、8:00からという異例の早さ(!)である。 ブッフェのメニュー

 スープ2種(温=豆、冷=ガスパーチョ)、タラのカラアゲ、小魚のカラアゲ、チキンソテー、煮

込み肉、トマト味のスパゲテイ、ライス(グリンピース、コーン混ぜ)、アンディーブのサラダ、

野菜(レタス、人参、もやし、タマネギ)、豆のミックス、デザート(シュークリーム等の菓子)、

スイカ

・・・小魚がキスに似た淡白な味で意外とウマかった。正体不明の肉は忌避して、スープとスパゲテイ、野菜を攻める。可も無し不可も無しの味。ワインは700ペセタ(約490円)とバカ安だったので、寝酒にともう一本部屋へ持ち帰る。

 

第9章・グラナダの夜は、ジプシーのフラメンコ

 食事の前に真鍋さんからの案内、「地元のプログラムで、アルバイシン見物とジプシーのフラメンコというのがあります。私も付き添いますが、あくまで地元のツアーです。9:20に出発、帰りは12時過ぎ、日によっては1時近くになることもあります。3500ペセタです。希望者はどうぞ」

「行こうか?」、「私はよすわ、あなた行ってきたら!」、「じゃあそうさせてもらおう」

ということで、食後ロビーに集まったのは、ヤングカップルと浪花のおばちゃん(失礼!お姉さま)コンビと小生の僅か5名。それにしても“お姉さま”コンビの元気振りにはビックリさせられる。もうこっちが負けそう。

 迎えのマイクロバスに乗り込むと丘を下り、2,3のホテルで客を拾ってから中心街へと入り、とある街角で下ろされる。同じようにいくつかのバスが来て忽ち数十人の群れとなる。多国籍群である。“お姉さま”達に「外人の中にはいったら、お嬢様みたいですねえ」と言ったら、

「いえ、私達、日本でも充分お嬢様ですよ!」 (うーん、一本マイッタ)

「こりゃ、失礼しました。その前向きの気持ちがあれば先は明るいですね」

「ええ、もう気持ちがあり過ぎて、お先真っ暗ですわ」

ほんまに関西は皆、芸人どすな! これで、お二人といっぺんに親しくなってしまいました。

 さて、本題。待つことしばし、小太りのジプシーのお姉ちゃん(富永一郎漫画の西洋版・・・又々古いなあ!)が登場。元気イッパイの案内役である。先ず日本語で「こんばんは!・・・・・・でもコレダケデス」、続いて「イングリッシュ?」と叫んで何人かが手を挙げた方に向かって「〇ЭЧ△・・・」、それから独語、仏語、そして勿論スペイン語でペラペラペラと挨拶。皆彼女についてゾロゾロと歩き出す。

生来の方向音痴に加えて、10時を過ぎてすっかり暗くなったのでどこがどうやらよく分からないが、もともとアラブ人の城塞都市として設計されたアルバイシンの街は、トレドと同じく、石畳の坂道が迷路のように入り組んでいるのだ。その昔、グラナダ陥落の時はアラブ最後の抵抗の砦となり、今歩いている石畳は彼らのおびただしい流血で赤く染まったという。

お姉ちゃんは、時々白壁の旧家や大きな門構えの家の前などで立ち止まって、例によって日本語を除く各国語でペラペラペラと解説するが、もとより何やらサッパリ分かりませぬ。風がなく珍しくも蒸暑さを感じる路地を登ったり降りたりしながらいいかげん歩いて(妻よ、不参加で正解だよ!)やって参りましたのは(もちろん後で分かったことだが)「サン・ニコラスの展望台」・・・ほんのりとライトアップされたアルハンブラ宮殿が、闇夜の中に漂うが如くに浮かび上がり、なんとも幻想的である。

 かすかな夜風にひと時の涼味を求めながらしばし見惚れた後、再びゾロゾロと歩いて行くとなにやら騒がしい場所へ出た。ようやく今晩のショーの館へ到着である。「ロス・タラントス」という店。ということは、アルバイシンからサクロモンテまで歩いたことになる。

             (闇夜にライトアップされて、幻想的!)

この店は洞窟住居の中にあるとガイドブックには出ているが、実際は舞台のある部屋が洞窟風になっているということで、中に入ると、白壁の蒲鉾型天井で覆われたウナギの寝床のような細長い空間に、中央通路を挟んで左右各3席、前席との隙間の壁際に横向きで1席。なるべく前がいいと思って進むと“一人ならココ!”と一番前の隅席に誘導された。いくらなんでもと断って、中程の席を見つけて座る。

   

ショーが始まったのが11時。ジプシーのファミリー総出演といった感じで、貫禄たっぷりの肝っ玉ばあちゃんをリーダーに、父=歌手、長男=ギター、次男=ダンサー、叔父=太鼓、娘(或いは長男の嫁)=ダンサー、といった感じ。おっと、一人アフロ系のエキゾチックな踊り子は次男の許婚か?(以上の姻戚関係は、何れも私の勝手な推定)

 父ちゃん歌手の声量は昨夜(セビーリャ)の歌手には敵わないが、娘と許婚の踊りは素朴な、ジプシーのフラメンコで、迫力がありなかなかのものである。(欲を言えば、妖艶さには欠けるが、民族舞踊に妖艶さを求めるのが間違いか)

 (ここから少しショーとは関係のない余談)

 途中、ワンドリンクのサービスがあり、サングリアをもらう。私の前の横向き席にあとから来て座った小柄な年配日本人女性が、コーラを一口飲んで「あら、氷入りのを飲んじゃったけど大丈夫かしら?」

「ええ、スペインの水は硬水ですけど、大丈夫ですよ。ガイドは(スペインの水は)世界でも水質は上のほうだと言ってました。私もホテルの水を少し飲みましたが、何ともないですよ」

「そうですか。今まで用心して、水や氷には一切口をつけなかったんですよ」

 これがきっかけとなって、この女性と話が弾む。

「お一人?・・・じゃあないですよね!」

「はい、実はきのう(昨日)アルハンブラ宮殿で息子の結婚式を致しましてね」

「ええっ!あんなところで出来るんですか?、こらぁ驚いたナ」

「ええ、実は花嫁が昔スペインに留学してましてね、どうしてもこちらで式を挙げたいというものですから。私んとこも夫は長いことブラジルへ行っておりまして、まあポルトガル語とスペイン語は隣り組でしょう。それでいろいろと段取りをつけて、みんなでやってきましたの。」

「宮殿のどこで式を挙げたんですか?」

「園内のサンタ・マリア教会で致しましてね、その後王宮のパティオで食事会を開いたんですのよ。観光客の皆様にも祝っていただきましてね、本当に素晴らしい式になりました。新郎のタキシードも花嫁のドレスもみんな私が縫ってあげましたのよ」「二人は今朝ヨーロッパ内のハネムーンに発ちましてね、老夫婦は少しこちらに残りまして、今夜はこのショーを観に来たんですの」

・・・・・・という次第で、それにしてもアルハンブラで結婚式とは!大変な実行力のある日本人ファミリーがいたものである。(ショーが撥ねた後で、後にいた旦那から「ばあさんの相手をしてもらって有難うございました」と声を掛けられたが、元気な壮年のころの森繁久弥に似た、山羊髭・胡麻塩頭の“粋”なおじさんで、しっかりものの奥さんにこのよき旦那ありといった感じの、ナイスカップルであった。)

 メンバーが入れ替わったセカンドステージもやはり、でッぷりと貫禄充分のゴッドばあちゃんを中心にしたメンバー。今度の踊り手は母―長女―次女といった感じで、長女は16才、昔太めだったころの宮沢りえちゃん風。つぶらな瞳がかわいい。しかし踊りは額に汗をにじませて迫力充分。次女は11才(年齢はいずれも推定)超“おしゃま”といった感じ。

 そのスリムな身体を躍動させての踊りは、彼女がまだほんの少女だということを忘れさせる。日頃は結構逞しく生きているんだろうが、このまま成長すれば“魔性”を帯びた女へと変身するやもしれない。そんな可能性を予感させる・・・。

 全てソロが基本のフラメンコはやや単調な感じが否めないし、“振り”や“タップ”は実際には大変な修練と高度のテクニックを要するものかもしれないが、感性の低い小生にはそこのところが理解し難い。しかし芸術家(後で二人は二紀会の画家と判明)のお姉さま二人によれば「今夜のフラメンコはよかった、感動した!」とのことで、こちらの評価が正当なのでありましょう。

 ショーが終わると12時を大きく回っていた。マイクロバスに乗って、アルバイシンの迷路を抜け、大通りで大型バスに乗り換えた後、市内のホテルを廻っては一組また一組と下ろしていく。宵っ張りのスペインとはいっても、地方都市とあってさすがに人通りも店の明かりも少ない。バスは中心街を行ったり来たりで、途中十字路で側面衝突して車が大破した事故現場に遭遇したりもする。(神様、どうか我がバスの道中の無事を!)

 結局丘の向こうにある我がホテルが最後になり、帰りついたのはなんと午前1:30。フロントには人影無く、真鍋さんが玄関のガラスドアを叩いて係員を呼び中に入れてもらう。

 時間が時間だけに、女房が待ちくたびれた末にワインを飲んで爆睡してたらタイヘンだゾ・・・と一瞬心配したが、2,3度ノックしたらドアが開いたので一安心。

 そそくさとシャワーを済ませるや、寝酒(ワインは半分強残っていた)を飲む余裕もなく、今夜も又々バッタンキュー!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次へ   戻る

 

 

 

 

 

 

inserted by FC2 system