3日目 (5月1日・月(プラハ市内見物)

 6:20起床。寝ぼけ眼を擦りながら、カーテンを開けると快晴です!(女房)「ネッ、私は晴れ女でショ?」 8:30には出発というので、身支度を整えるとそそくさ朝食へ。昨夜“ソデにされた”メインダイニングは既に我が一行を始め大勢の人で賑わっています。

料理は朝のブッフェとしては一応の品数が揃っており、夕食より寧ろ朝食のほうがぐんと上等です。パンは素朴な味ですが、これにマスタードを塗り、チーズ・ハム・酢キャベツ・ゆで卵やソーセージを挟んで食べると結構いけます。女房は毎日食べてるフレッシュ・ヨーグルトがあるので、ご機嫌。(この後、不思議なことに、何処のホテルでも、晩飯より朝のブッフェがよかったです)

バスには小此木さんという女性が同乗して今日半日のガイド役。春霞か、スモッグか〜〜少しモヤッとした中心部を通って目指すはプラハ城。小高い丘の上に、天を切り裂くように伸びた尖塔を擁した建物が周囲を睥睨(へいげい)するように聳(そび)えている。

 

(城の中心・聖ヴィート大聖堂の尖塔)(マチアス門の衛兵と)

カレル4世とプラハ

このプラハ城を築いたのが、チェコの黄金期を現出させたカレル4世であるが、では、ここでちょっと歴史の勉強をしておこう。

〜〜今日のチェコ&スロバキア地方が国家として歴史に登場したのが9世紀。当時フランク王国の辺境に位置したモラヴィア地方に割拠するスラブ人がフランク王国の衰退に乗じ、モイミール1世に率いられてモラヴィア王国を建国。フランクとの鬩(せめ)ぎあいを繰り返す一方、東ローマと交易し、   ビザンツ文化を取り入れ繁栄したが、10世紀に入って南方より侵攻したマジャール人に滅ぼされ、東のスロバキアは彼等の支配下に入る・

  一方、西のボヘミア・モラヴィア地方でプシェミスル家のヴァーツラフ1世がボヘミア王国を建国。 11世紀頃からドイツ人の殖民が進み、14世紀プシェミスル家の断絶後、ドイツ系のルクセンブルグ家が新王朝を建て、やがて14世紀半ば全盛期を迎える。

1340年、病いに伏した父ヨハンの後を継いだカレル1世は王君としての資質に優れ、神聖ローマ皇帝ルードウィッヒ4世の対抗馬としてローマ教皇や周辺諸侯の輿望を担う存在となる。果たしてルードウィッヒの死後、その息子を抑えて、神聖ローマ皇帝として即位し、ここにボヘミア王カレル1世は神聖ローマ皇帝・カレル4世となった。彼の治世下、プラハは謂わば“ヨーロッパの首都”であり、ボヘミアは史上空前(絶後?)の繁栄を謳歌することとなった。

〜〜今、我々はその栄華の跡を歩いているのである。朝早くから大勢の観光客が詰め掛けて、マチアス門の衛兵との記念撮影は押すな押すな。先ずは城内最大の建造物・聖ヴィート大聖堂へ〜〜925年この地にヴァーツラフ1世がロマネスク様式の教会を建てたのが始まりで、1344年カレル1世が大聖堂を建設し、約600年後の1929年になって現在の姿に完成を見たものだという。外観も威風堂々であるが、中に入るとゴシック建築の傑作と謳われるアーチ型の高い天井と、華麗なステンドグラスにため息が出る。

     

(アーチが美しい堂内とミューシャのステンドグラス)

 荘厳な雰囲気に浸りたいところであるが、ガイドの小此木さんはゆっくりすることを許さず、テキパキと一行を引っ張っていく。外に出ると、広場の向こうは大統領官邸。(小此木)「何処の馬のホネとも分からぬ輩がこうして大統領官邸のドアの前までフリーにやってこれるなんてのは、世界中でここだけですヨ!〜〜ハイ、次はデスネ・・・」お互いを入れて写真を撮る暇もあらばこそ、彼女によって奥へ奥へと追い立てられる。

 広場を抜けると、黄金の小道=昔、錬金術師たちが住んでいたのでこの名前が付いたという。その一角の青い壁がフランツ・カフカの仕事場であった家。

   

(黄金の小道)     (カフカの家)  (坂道の向こうはプラハ市内)

 城壁を出ると、坂道の向こうにプラハ市内が見えてきます。ずんずんと進んで次に目指すはカレル橋

 チェスキー・クルムロフでは流れの速い小川であったヴァルタヴァ(モルダウ)はプラハ市内に入ると堂々の大河となっているが、その上に架かる幾つもの橋の中で最も有名なのがカレル橋。何故かというと、この橋だけが唯一、石畳が敷き詰められた「歩行者天国」であるということなのです。〜〜というわけで、休日(メイデイ)のせいもあってか橋の上は大勢の観光客等で賑わっています。川を渡る風に吹かれて、丘の上のプラハ城、眼下のモルダウのゆったりとした流れを眺めながら散策していると、頭の中をスメタナの「わが祖国」のメロディが流れていきます。

     

左=(橋の上)    中=(モルダウ川とプラハ城) 

右=(聖ヤン・ネポムツキー像の台座を触ると願いごとが叶うとかで、台座はピカピカ!・・・小泉さんもこの台座を    触ってご機嫌であったとか。郵政民営化のことでも念じていたのでしょうか?・・・)

“時間”になると小此木さんの号令一下、橋を降りて旧市街へと移動です。橋のたもとにはカレル1世の銅像があります。勇猛裂帛(れっぱく)の雰囲気で、一代の英傑のパワーを彷彿とさせるブロンズ像です。

きれいな石畳を踏んで“中世の面影”を残した通りを抜けると、サッと明るくなって旧市役所前の広場に出ます。

   

(カレル1世の像)(旧市街への入り口)(広場)

ここで、“お買い物タイム”。広場の一角にボヘミンアグラスの専門店「ERPET=エルペット」がある。相当大きな店で日本人店員もいるし、その他の店員の接客マナーも申し分ない。華麗なボヘミアングラスの名品はなるほど素晴らしいが、残念ながら我が夫婦はガラス製品にトンと興味なく、“猫に小判”、“豚に真珠”、“巨人に清原”(ン、だんだん意味不明?)で、椅子に座ってサービスのコーヒーを有難く頂戴しながら、格好の休憩時間であります。

 そうこうするうちに、広場の真ん中に大勢の人が集まってきました。皆が見上げる先の天文時計台は、“からくり時計”になっていて1時間ごとに仕掛けが見られるのです。毎正時になると文字盤の上の窓が開いて「12聖人人形」が姿を現し、横で骸骨が鈴を鳴らします。たったそれだけの、アッという間に終わる単純な仕掛けですが、それでこれだけ多くの群集を集めるのですから、スゴイといえましょう。

   

 ”からくりショータイム“が終わると、昼食へ。 旧市街を進み、硝煙の臭いが漂っているような黒く煤けた火薬塔をくぐると、市民会館がある。春のヨーロッパ最大の音楽の祭典、「プラハの春音楽祭」は毎年スメタナの命日(5/11)から開催されるが、そのオープニングコンサートがここ市民会館のスメタナホールで行われるそうな。

     

 正面1階ホールが喫茶室、2階がレストランになっており、なかなかの雰囲気です。

昼食のメニューは《 パン、コンソメスープ、チキンソテー&クリームソース・パスタ添え、冷やしチョコババロア&カットフルーツ》・・・フレンチ風に、旅行中の食事で唯一“垢抜けた感じ”で、どれも美味しかった。チキンもソースに騙されて(!)完食してしまいました。(ビール大・65コルナ、中55コルナ)

 お腹も満ちると、これからは完全フリータイム。「完全」とは、つまりこの後は“どうぞ、勝手にやってくださいな”ということで、好き勝手に出来る反面、ホテルへの帰還も自力でということです。

「初めての街でそんな殺生な!」、

「電車―バスと乗り継いでも帰れますが、先ほどのERPETでタクシーを呼んでもらえますよ。あっ、流しのタクシーはボラれますから、絶対乗らないようにしてください」

「で、料金は幾らくらいでしょうか?」

「4〜500コルナ位(2200〜2800円)でしょう。この前、300コルナで帰ってきた人がいましたが、運ちゃんが滅茶苦茶飛ばして、死ぬほど怖かったと言ってましたけど・・・」

「・・・・・・」

〜〜ま、最後はERPETを信じて、プラハの街角ウオチッングへと踏み出すことにする。

もと来た道をもどって、時計台横の建物からエレベーター&階段で旧市庁舎の展望台へ上る。ワオーッ!ここからの眺望もじつに素晴らしい! 赤い屋根の家並み、教会の尖塔、プラハ城・・・クルムロフで既に経験済みともいえるが、それ以上で、こんなに素晴らしい街並みは見たことがありません!

   

  (中=二つの塔はディーン教会)(右=遠くに見えるはプラハ城)

 

 (宗教改革者ヤン・フスの像と広場の賑わい)

 塔を降りると、ヴィトンやエルメスのブランドショップが軒を連ね、ちょっとパリの趣きといった感じの並木通りを抜け、モダンな広場で満開の桜の木を発見。工芸美術館手前でUターンし、ユダヤ人墓地〜ユダヤ教会(シナゴーク)を経て、再び広場に戻り、堂々たる二つの尖塔を持つティーン教会へ入る。クラシックの音楽とビデオ映像が流れていたが、夜はコンサートホールになるらしい。

     

(プラハの“桜”)  (ユダヤ人街と右は墓地)  (ディーン教会の内部)

 再び火薬庫を抜けて、これから新市街へ。少し近代的なビルが並ぶナ・プシコーピェ通りは道行く大勢の人で賑わってます。プラハの“銀座通り”といったところでしょうか。

「少し疲れたから、ちょっと洒落たテラスでお茶でもしたいわ」

「オッ、ちょうどマックのテラスがあるじゃないか!」

そう、新市街に出ると、そこかしこにマックがあって繁盛してます。“マックは世界を征す”です(?)

通りのパラソル席に座ってちょっと一服。日本のマック・コーヒーよりは美味しい。(29コルナ=約160円)

「私の“テラスでお茶”とは、ちょっとイメージ違うんだけどなあ・・・」

   

 通りを進むとヴァーツラフ広場に出ます。真っ直ぐ奥の正面に荘重な感じの国立博物館が見えます。(でも中身はたいしたことは無いそうです)

今は平和で自由な雰囲気そのもので、まさにプラハの春爛漫といった感じですが、38年前、ここはワルシャワ条約軍の戦車隊によって占拠され、チェコ国民の自由への希望=“プラハの春”は踏みにじられたのです・・・。

 

(ヴァーツラフ広場、しょっちゅう市電が通ります)

プラハの春とその崩壊

 ここで、再び歴史を紐解いてみよう。

〜〜68年1月、強権政治や計画経済の行き詰まりに対する批判の高まりで、ノヴォトニー大統領兼第一書記の長期支配体制が倒れ、アレクサンデル・ドプチェクが第一書記に就任。彼は「恐怖政治からの決別」、「市場機能導入による経済改革」、「言論や芸術活動の自由」を盛り込んだ新しい社会主義モデル(いわゆる“人間の顔をした社会主義”である。)を提起し、党・政府首脳を改革派で押さえた。

6月には作家ヴァツリークが起草者となった「二千語宣言」が発表された。市民社会からの改革に対する支持表明であり、国民の英雄エミール・ザトペック&ベラ・チャスラフスカをはじめとする著名人が名を連ね、1週間足らずで、3万人を超える市民が署名し、ここに“プラハの春”は一つの頂点を迎えた。

しかし、当時はまだソ連が共産圏に鉄の支配を敷いていた時代。この動きを“反革命”と見たブレジネフや各国首脳はドプチェクに対し「改革路線破棄」を説得するが、ドプチェクは「改革こそが共産主義体制を強化する」と譲らず、業を煮やしたブレジネフは8月半ばの政治局会議で軍事介入を決定。

かくて8月20日深夜、ソ連率いるワルシャワ条約軍がチェコに侵攻し、瞬く間にチェコ全土を占領下においた。かくて人民が熱く支持したドプチェク改革路線は戦車隊の轍に踏みにじられ“プラハの春”はあっけない幕切れを迎えたのである。

 ドプチェクはやがてブラチスラバ近郊の営林署職員に飛ばされ、その凄まじいばかりの運命の暗転ぶりが日本にも伝えられた。(私は当時の新聞記事&写真を今でもはっきりと覚えている)しかし、当時の共産政治体制なら「行方不明」となってもおかしくないところで、生きながらえたのはそれだけ人民の支持が強かったことの証拠か。   

実際“生きておればこそ”で、89年“今度こそホンモノの民主化”の「ビロード革命」によって共産党政権が倒されたあと表舞台に復帰し、92年には連邦議会議長に就任したのである。そのとき、彼の胸中を抉った感慨は如何ばかりのものであったことであろうか!

最も再びの“栄光のとき”も短く、同年11月交通事故の重症がもとで逝去(享年71歳)したが、その翌月に連邦がチェコとスロバキアに分離したのも何かの因縁か?

さて、“プラハの春”で、もう一人人生が大きく変わった人がいる。今回の旅行を決めた時に、チェコといえば真っ先に頭に浮かんだのが、そう、ベラ・チャスラフスカのことである。

東京オリンピックといえば、なんと言っても“東洋の魔女”であり、“裸足の鉄人”ビギラ・アベベであるが、市川 昆監督の傑作映画の中では彼女がヒロインで、その見事な演技と凛とした美しさにあらためて日本中が魅了されたのである。報道陣の前では「チェコの赤いバラ」と称された魅惑の笑顔を振り撒いていたが、その裏では秘密警察関係者にガッチリとガード=監視されていたそうで、そのことは“プラハの春”以前に既に彼女が筋金入りの民主派であったことの証拠であるといえよう。(そういえば、東京五輪で彼女が破った相手は個人総合三連覇を狙ったソ連の女王ラチニナであった。)

 ベラは「二千語宣言」に中心人物として署名し、民主化のシンボルとなったが、ソ連軍の弾圧によって一転苦境に立たされる。しかし彼女は逆境に屈することなく、田舎に身を隠して秘密練習を続け、次のメキシコ五輪でも再びソ連のクチンスカヤを退け、個人総合を含む4個の金メダルを獲得する。(このときソ連に抗議の意思表示として、黒のタイツを身につけて演技に臨んだという)

 アスリートとして栄光に包まれた彼女であるが、祖国に帰れば“反体制派”として苦難の日々が続く。この“やっかいなヒロイン”に対してあらゆる恫喝・懐柔が繰り返されたことであろうが、彼女はガンとして受け付けず、決して“転向”することは無かったのである。なんと気高く、雄々しいことであろうか!

 〜〜こうして苦節20年余、「ビロード革命」が成功し、チェコが真の民主化を実現たときに、新大統領ハヴェルの傍らに、大統領顧問として(星霜を重ねた美しさを湛えた)彼女の姿があった。

 この遅れてきたピース&ハピネスがそのまま続けば、めでたしめでたし・・・となるところであるが、運命の神はどこまで彼女に冷酷なのか! 夫との離婚、そして息子と前夫がとある場所で出会ったときに諍いとなり、転倒した前夫が死亡し、息子は殺人犯として嫌疑を受ける・・・不幸の連続にさすがの彼女も精神的に深いダメージを受け、もはやかつてのあの輝くような笑顔は失われたままであるという・・・

 〜〜ひとしきり感慨に耽ったあとは、現実に戻って市街探訪を続ける。前方にSUPER MARKETという看板が見えた。「オッ、面白そうだゾ」と早速ビルの階段を降りると、じつに豊かな食品群が並んでいるのに驚かされる。  

    

(野菜)      (果物)       (ミート&惣菜)

 通りの反対側にはプラハ版の“100円ショップ”もあった。安い雑貨は全て中国製だ。う〜ん、恐るべし中国パワー!   

   

 (百均ショップとスーパーTESCO)

広場に別れを告げて、ガイドブックにもあるもう一つのスーパー「TESCO」へ向かう。私のここでの目的はチェコの国民酒といわれるBECHEROVKA(ペペロフカ)=ネット情報によると《何種類もの薬草が入った複雑な味。アルコール度38°と強いので、ロックや水割りで飲む。食前酒によし食後酒によしです・・・》とあったので、それはぜひ買ってこようと思った次第。(帰国後に自宅で飲んだところ、どうにも妙なクスリ臭さと甘みが残る変な味で、ハッキリ言ってマズかったです!)

ことのついでにモーツアルトチョコなど菓子類の土産品もここで買ってしまう。モーツアルトチョコは本家ウイーンのみならず東欧圏はどこでも売っていました。“ガッカリ名物の代表!”と、日本での評判はあまり芳しくないのですが、我が家では好評でした。ハワイのマカデミアチョコと違って値段は結構なものですが、完全な球体のチョコをモーツアルトの絵柄を印刷した銀紙できれいに包み込んであり、剥くのに苦労するほどで、この包装代に相当コストがかかっていると推定しました。

    

 買い物が終わると晩飯です。ツアーではオプションとして「ビアホールでのディナー、ビール1杯付き6千円」というのがあったのですが、参加者が少なく中止。私も予め「ぐるなび海外版」で幾つか候補は調べてあったのですが、篠田嬢のオススメの一つがTESCOの近くにあったので、有名なビアホールは諦めて、近くのその店MEDVIDKU」に行きました。

店に入ると6時過ぎとあってまだそんなに混んではいません。先ずはビールで、ピルスナーとダークを注文。これは英語(?)でも通じます。メニューを広げると英語表示もありますが、料理のコンセプトが無いと、文字を見てもなんの料理か分かりません。すると女房が立ち上がってそのあたりを一周し「ねぇ、あの料理が食べたいわ」と言うや、ウエイトレスをその席に連れていって何やら指差してます。

しばらくして出てきたのはビーフシチュー。2種類の“茹でパン”がバッチリと添えられていますが、更にパンのバスケットも付いてきます。野菜が無いのでザワークラウト、それに野菜とガーリックトースト・クルトンのスープを追加。(量が多いと聞いていたので全て1人前です)ビーフシチュ−はなかなか美味しかったです。小食の(?)夫婦はこれでお腹一杯で、満足満足。

  

勘定時に、コルナの持ち合わせが少ないので「クレジットカードでもいいか?」と尋ねたら、係りのお兄さんは「OK」とは言ったものの、怪訝な表情。渡されたレシートをよく見ると243コルナ・・・ということは、1400円弱!・・・料理に生ビール大ジョッキ2杯付いてこの値段ですから驚きの安さです。数年前なら(もっと)安いのは当たり前だったのが、「ユーロ圏」入りしてインフレが進行しており、観光客が来るレストランは日増しに高くなっていると聞いていたのでビックリしました。  これじゃあ、お兄さんが怪訝な顔をするハズで、慌ててコルナ紙幣を差し出しました。          

 店を出ると、手荷物も多いのでそのままご帰還です。途中“風呂上りに”と、食料品店を見つけて缶ビールを買い、昼間のERPETにたどり着き、タクシーを頼みます。本当にこの店のCS度はたいしたもんで、たちどころに手配をしてくれ、到着の連絡が入ると、その場所まで案内して見送ってくれます。運ちゃんにホテル名を大きく書いた紙を見せると「分かった!」の表情。8時を過ぎてもまだ薄明るい繁華街を抜けて20分ほどでホテル到着。“死ぬほど怖い思い”は一切しませんでしたが、料金はなんと280コルナ!チップを含めて300コルナ支払いましたが、後で篠田さんに言うと、「私の知る最安値デス」と。

 かくて、まあ、自由行動をある程度堪能したわけですが、40人の中には、はるかなツワモノたちがいます。道中親しくなったU夫妻は、夕食後教会のコンサートを楽しんだあと、カレル橋へ行くとメーデー記念の花火が上がっていたのでそれを見物し、電車=バスと乗り継いで帰還したのが11時前。また若い女性二人組は昨夜(着いたその夜)にバスに乗って繁華街まで出掛けたとかで、こういうダイナミックな旅の達人にはもう脱帽デス!

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