11月18日(水) 三日目 晴れ

 今日は、岡山から山陽本線で約1時間20分、尾道へ向かいます。尾道駅前からバスに乗って5分、長江口で下車すると、千光寺山行きロープウエイの乗り場です。定員29人ということですが、コロナで人数制限しているので、10人強が乗るとすぐ発車してくれます。上がるにつれ、眼下に尾道の光景が広がります。3分ほどで、公園口に到着しました。

      

   

  展望台へ行くと手前から尾道の街並み〜尾道水道〜向島とパノラマが広がります。よく晴れているのですが、今週は気温が高く、今は25℃くらいあるでしょうか?それで遠くのほうはちょっと霞んで、残念ながら“絶景”とはいきません。

      

       

                    (新尾道大橋=手前と、尾道大橋=後方)

 展望台を降りると、文学のこみちを辿って千光寺へ向かいます。このあたりには大きな石がゴロゴロしていますが、その点在する自然石に尾道ゆかりの文人墨客25人の詩歌・小説の断片等を刻んであります。それらを拝見しながら進んでいくと、結構きつい坂をいつの間にか千光寺迄たどり着ける・・・といった案配で、これはアイデアですね。

    

(徳富蘇峰の石碑)

最初は徳富蘇峰で、碑文は「海色山光信(まこと)に美なるかな 更に懐う頼子の出群の才を 淋離たる大筆精忠の気 維新の偉業を振起して来たる」

以下、前田曙山、正岡子規、物外、十返舎一九、金田一京介、江見水蔭、志賀直哉、林芙美子、緒方洪庵、巌谷小波、山口玄洞、山口誓子、 柳原白蓮、河東碧悟桐、

竹田・竹下・伯秀、松尾芭蕉、中村憲吉、俚謡。吉井勇、古歌、小杉放庵、菅茶山、陣幕久五郎、頼山陽 と続きます。

      

            (正岡子規)                       ( 十返舎一九)                      (志賀直哉)

子規・・・「のどかさや 小山つづきに 塔二つ」・・・日清戦争の折に日本新聞の従軍記者として尾道を通過したときに詠んだ句。

十返舎一九・・・「日のかげは青海原を照らしつ、光る孔雀の尾の道の沖」・・・山陽道漫遊中の作。・・・一九って、ここまで訪れていたんだ!

志賀直哉・・・「暗夜行路」から尾道に触れた一節。彼は大正元年秋から約1年の間、千光寺山中の中腹に居を構えていたそうです。

      

          (林 芙美子)                        (緒方洪庵)                        (山口誓子)

林芙美子・・・「放浪記」で尾道に触れた1節。下関生まれで、大正5年に尾道に移り、尾道高等女学院卒後後上京。昭和4年に「放浪記」で世に出た。

緒方洪庵・・・「軒しげく建てたる家居よ あしびきの やまのおのみち 道せまきまで」・・・1862年初夏に尾道来遊の際の作

山口誓子・・・「寒暁に鳴る指弾せしかの鐘か」・・・昭和37年尾道来遊の際、千光寺詣での宿舎で鐘の音を聴いての句。

     

        (松尾芭蕉)                         (吉井勇)                        (陣幕久五郎)

芭蕉・・・「うきわれを 寂しがらせよ 閑古鳥」・・・芭蕉は尾道と縁はないが、寛政4年尾道で芭蕉百回忌の句会を催した際に境内にこの句碑を建てた。

吉井勇・・・「千光寺の御堂へ上る石段は我が旅よりも長かりしかな」・・・昭和11年に四国・中国・瀬戸内に歌行脚をし、その際に千光寺を訪れた。

陣幕久五郎・・・「うけながら風を押す手を柳かな」・・・島根に生、相撲を目指し尾道に出て初汐久五郎の弟子となり、後に江戸へ出て12代横綱となった。

 〜〜いやぁ、本当に多彩な人々が尾道と縁があるんですねぇ!

 途中には、石碑だけでなく、こんな景色もありました。

  

(ポニーにそっくりな木!)                   (もみじ龍?)

  

(大きな岩がとうせんぼ!)

      

(木々の間から、二つの大橋がみえました)

    

(最後の石段を下って、千光寺の裏門に到着です)

(千光寺マップ)

   裏門から中へ進むと、巨大な岩の上に黄金色に輝く玉が鎮座しています。玉の岩、または烏帽子岩と呼ばれ、周囲50m。高さ15mある王です。〜〜昔々、岩の天頂部に光る玉があって、遥か海上を照らしていましたが、ある時異人が奪い去ったということです。今でも天頂部には大きな穴があり、宝玉があった跡だといわれています。山を大宝山、寺を千光寺、港を玉の浦と呼ぶのは、この伝説に基づくものだとか・・・。

 梵字岩は、5代将軍綱吉公の帰依僧の浄巌大和尚が訪れた際に、書き残したもので、「光明真言、大日如来真言」の梵字が刻まれているそう。

    

 (玉の岩)                                      (梵字岩)

      

 (客殿脇の見晴らし台・・・目の前をロープウエイが往来します)

      

(尾道は寺の街・・・山側を見ると、多くの寺の甍が見えます)

    

                          鐘楼                     (横から見た本堂)

  寺の案内によると、「本堂は貞享3年(1686年)に建立された、この地には珍しい舞台造り。ご本尊は千手観世音菩薩で、33年に一度ご開帳の秘仏・・・」とあります。今見ている千手観音はご本尊と同じお姿の「前仏」です。(次のご開帳は2046年です)     

(千手観音・前仏)

    

 (清水寺と同じ、舞台造りですから、やはりこれが撮影のアングル!)

    

 (本堂にのしかかるような「三重岩」)

  奇妙な形をした巨大な岩がいくつもありますが↓の「男女岩」には、思わずニヤリとさせられてしまいます。神聖なる境内にあっていいのでしょうか?

 

   鎖を打ち込んだ岩があって、その名も「石鎚山鎖修業」・・・挑戦者は100円奉納して鎖を伝って上に登っていきます。で、上がったら何処から降りてくるのでしょうか?  ↓右の岩もなんとも奇妙な形をしています。

  

                                      (石鎚山鎖修業

  大仙堂を過ぎて坂道を上がっていくと、鼓岩(通称ポンポン岩)があります。若いカップルが備え付けの「ハードゴム製のハンマーで岩を叩いています。私もやってみましたが、凹んだスポットの周囲20cmくらいの範囲を叩くと、本当にポンポンと太鼓を打っているような音がします。離れたところを叩くと音は出ません。本当に不思議な岩です。

      

 千光寺は“にぎやかな”で、”楽しい?“お寺ですが、山の斜面を開いた寺で、広い敷地は無い為、「仏教聖地」という風格は感じられなかったです。ともかく坂道を戻って、次は急な石段を下りていくと、毘沙門堂があります。宝暦4年(1774)再建で、中には鞍作止利仏師の作と伝わる毘沙門天や脇士禅尼師童子、吉祥天女が安置してあるそうです、

     

(内部写真は千光寺資料より)

  さらに下ると、中村憲吉終焉の家がありました。中村憲吉(18891934)は広島県三次郡(現在は市)生まれ。鹿児島・七高を経て東大(経)に入学。伊藤佐千夫門下となり、「アララギ」に参加。大阪毎日新聞・経済部記者となるが、やがて家督を相続し、酒造をはじめとする家業に携わる一方、実家の莫大な資産を「アララギ」支援のため惜しみなく注ぎ込んだという。41歳の頃肋膜になり、その後体調がすぐれず、1934年肺結核と急性感冒のためこの家(仮寓)で46歳の若さで亡くなった。

 経済的な余裕は十分にあったであろうが、当時結核となれば、このようなひっそりとした場所で蟄居しなければならなかったのであろうか?(建物の脇に崖が迫った家って、湿気が多くてやっかいなんです!・・・下関で体験済みです)

     

    

(句碑)

(写真・右の句碑)・・・「千光寺に夜もすがらなる時の鐘 耳にまぢかく寝()ねがてにける」      合掌

眼下に三重塔が見えてきました。天寧寺の三重の塔です。天寧寺から離れて塔だけが聳えており、周りは墓地になっています。

天寧寺は室町2代将軍足利義詮の寄進により1367年に創建された臨済宗の寺院(元禄年間に曹洞宗に改宗)。創建当時は東西3町(330m)の寺域を持つ大寺院で、3代義満も宮島参拝の帰路逗留するなど足利家ゆかりの寺院として繁栄しました。しかし、室町幕府衰亡でその後ろ盾をなくし、江戸時代1682年の火災で、この塔を除くすべてを焼失したことから衰退。それで現在は再建された本堂と塔は離れているというわけです。塔は、創建時は五重塔でしたが、1692年に痛みの激しい上部2層を取り払って3層に改造したそうです。

    

(塔の内部・・・資料より)

また急な坂を下っていくと、天寧寺にたどり着きました。千光寺は大勢の観光客で賑わっていましたが、こちらは全く人影がありません、

     

(正面参道から入ると↑こうなります)

 本堂の入り口には「ご自由にお入りください」と張り紙がありましたので、ガラス戸を引いて中に入り、お参りします。

   

左右に唐獅子牡丹」の襖絵があります。南画の第一人者として活躍し、2005年に101歳の長寿を全うした画家・直原玉青さんの力作です。

  

本堂に向かって左手奥に五百羅漢と書かれた額が掲げられた小さなお堂があり、こちらも「自由にお入りください」との表示がありましたので、引き戸を引いて中へ入って・・・ビックリです!

  

堂内にびっしりと鮮やかな色彩の羅漢像が並んでいます。江戸時代の文化年間(18041824)から明治初期迄の約60年間に亘って、宗派・地域を超えて檀家、信徒より一体一体寄進されたものだそうです。最前列に限りない功徳を備えた十六羅漢、その後列に釈迦十大弟子、そして3列目から五百羅漢と全部で526体を完全に備えているそうです。いや、本当に素晴らしい・・・此処でこんな素晴らしいものを見ることが出来ようとは!

      

 参道の階段をおりると、山陽本線の線路の下を抜けます。

本通りを横断して、浜の小道を通って海岸通りに出ました。千光寺で時間を費やしたので2時近くになっています。今日の昼はイタリアンにしようと、イタリ庵西山亭に入ってみます。時間が時間なので、先客は1組のみ。

  

 連日食べ過ぎなので、軽めのランチ。グラスワインが付くのが嬉しいですね。(ガーリック・バケットが付いて1,100円也)

       

        (サラダ)                 (私=ちりめんじゃこと海草のパスタ)        (妻=アンチョビとキャベツパスのパスタ)

  店を出ると、斜め向かいの小さなラーメン屋の前には、こんな遅い時間なのに、数人が行列を作っています。道を渡って角を曲がると、胡蝶蘭の鉢などが店先にたくさん飾ってあって、新しいラーメン店がオープンしていました。(妻)「あっ、尾道ラーメンの方がよかったかなぁ・・・でもハシゴは出来ないわねぇ・・・」

 その後は、“山側に戻って、寺巡りを・・・”とも思いましたが、又急な石段を上り下りするのも難儀なので、このまま海沿いをブラ歩きすることにしました。

     

  港の近くに住吉神社があります。元文5年(1740)に町奉行に着任した平山角座衛門は住吉浜を築造して港町・尾道発展の基礎を築き、浄土寺境内にあったお宮を移築し、港の守護神としたそうです。

      

 (住吉神社)                         (大灯篭)                      (力持ち達が競った力石)

      

 

突堤に腰かけて、海(=尾道水道)を眺めていると、突然、横からおばさんが

「海の向こうにという字が見えますか?」

「ええ、見えますが・・・」

「なんだかわかりますか?」

「さて・・・?」

「この前、TVのナニコレ珍百景にも出たんですけどね、船を漕ぐを作ってるんですよ」

「へぇ、そうなんですか!」

「この前、私も行ってみたんですけどね。ガラス越しに覗くと、おじいさんが一人で木を削って櫓を作っていましたよ。長良川の鵜飼いの舟とか、全国から 注文が来るんですって!あそこの渡し船で行ってみたらおじいさんに会えるかも。百円で渡れますよ」

〜〜 で、おばさんの勧めに従って、向島との間をピストン運転している渡し船(ミニ・フェリー)に乗って(ものの5分で)対岸の向島に渡りました。

  

 降りると波止場のすぐ前に「の小屋(失礼、工場?)があります。覗いてみましたが、作りかけの櫓が置いてあるだけで、残念ながらおじいさんのはありませんでした。

  

  港町・尾道の全景は、こうやって向島に渡らないと、見えません!天寧寺の三重塔や千光寺も見えます(ちょっとボヤけて残念・・・コンデジの限界!)

      

 「こんにちは」・・・歩行用の手押し車を押したおばあさんが通りがかりました。妻は挨拶をして少しおしゃべり。おばあさんの身の上話を聞きます。彼女は誰かと話したかったんでしょうね。「文殊菩薩さんにお参りしてきたところよ。毎日行ってるわ。お参りしてみたら・・・」

 少し歩くと、小屋があって、ガラス戸を開けると、文殊菩薩様が鎮座しておられました。

  

  3時過ぎ、まだ時間余裕があるので、波止場周辺を少し歩いてみます。何の変哲もない静かな田舎町ですが、大林亘彦監督(今年4月逝去)の尾道を舞台にした“新・尾道三部作”のうち「あした」(1995年作品)のロケ現場となった“兼吉市営バス乗り場”のセットがありました。

 大林は尾道出身で、尾道三部作=「転校生」(1982)、「時をかける少女」(1983)、「さびしんぼう」(1985)、さらに、新・尾道三部作=「ふたり」(1991)、「あした」(1995)、「あの、夏の日」(1999)と、尾道でロケを行った作品が多数あるそうです。(私は彼の作品は「時をかける少女」しか見ていませんが)

 「転校生」の大ヒットで、大林は監督としての名声を確立し、又この映画を見た人々が「まだ、こんなにきれいな街が残っているんだ!」と認識して、尾道がクローズアップされ、1984年には若者を中心に20万人を超える人たちがロケ地巡りに押し寄せたという。映画による地方の町起こしの切っ掛けになったということである。 〜〜ブームから36年、今日この時間に、此処にいるのは我が夫婦だけですが・・・。

  

                           (映画・「あした」のロケ現場のセット)

 フェリーに乗って尾道へ引き返します。日も少し傾き始めました。

 船を降りて、アーケード街=本通りを歩いてみます。全国どの地方都市でも、かっては賑わいを見せた町の中心街は今やシャッター通りと化していますが、此処尾道もその例外ではありません。人通りは殆どなくひっそりとしています。

 中ほどに古風で立派な建物がありました。旧・尾道商業会議所です。今は「記念館」になっているようで、中に入ると資料展示や観光案内コーナーになっています。係の女性の「奥の階段から2階に上がってみてください。いいですよ」という勧めに従って上がってみると、重厚で格調高い、赤絨毯が敷き詰められたホールがありました。港町として栄えた尾道は明治25年(1892)に全国で30番目の商業会議所を設立し、大正12年(1923)にこのビルを建設したそうです。当時の繁栄ぶりが偲ばれますね。会議所は1971年に移転しましたが、その後このビルを改修・復元して2006年から記念館として公開しているということです。

    

 

 今夜は尾道で美味しい魚を食べようと、人気店を予約(席のみ)していましたが、妻が「明日は朝が早いしことだし、夜まで待って食事するより、せっかくだから“尾道ラーメン”を食べましょう」と言うので、それもそうかな?と、その店にキャンセルの電話を入れてから、昼間の海岸通りの行列店を思い出して行ってみましたが、閉店時間前なのに、既にクローズ。そこで、新規開店の店(=かつての評判店を、娘さんが“父親の味をどうしても復活させたいと頑張って今日復活オープンしたのだとか・・・直前に入った土産物店で聞いた話・・・シマッタァ、昼間に入っとくんだったぁ!)へ回ると、やはり此処も閉店で、シャッターを引き上げて、中から女性が出てきました。彼女に妻が問いかけます。

「もう閉店ですか?」、「そう、スープの一滴も残らずに完売で、もう疲れたワ」

「近くで美味しいラーメン屋さんありますか?」、「あそこの壱番館は美味しいわよ、私はネギラーメンが好きだわ」

 〜〜で、その壱番館に入ってみました。4時半過ぎという中途半端な時間ですが、若い客層で賑わっています。妻は“ネギラーメン”、私はオーソドックスな醤油ラーメン。スープは豚・鶏ガラ・煮干しのミックスのようで、コクとうまみがしっかりとあっていい味です。背脂がたくさん入っているのがこの店の特徴ということですが、しつこさはなく、いいアクセントになっています。夫婦ともに大満足で、尾道ラーメンの実力を認識しました。

     

  駅までの道は再び、海岸沿いを散歩します。シーはよく整備されて、気持ちのいいプロムナードです。雲が出てきましたが、日没の一瞬が鮮やかでした。

  

〜〜こうして、港町&寺の町・尾道を堪能した一日でした。(今日は15,700歩)

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